大政奉還と王政復古クーデター。明治新政府発足!-明治維新7-

京都御所
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日本史上最後の将軍となった慶喜は内乱を避けるため「大政奉還」を行い、西郷・大久保・岩倉の「王政復古」クーデターによって強引に新政府が出来、900年以上続いた摂関制度、260余年にわたる徳川幕府は終焉を迎えます。

公武合体を支持し徳川慶喜を将軍後見職に推したほどの薩摩藩が本当に倒幕に転じたのか。 徳川幕府が弱体化する一方で朝廷の権威・位置付けはどんど...
鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争の始まりとなった戦争で、薩摩・長州が倒幕のために仕掛けました。 西郷たちがクーデターまで起こした「王政復古」...

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慶喜、「大政奉還」で「ニセ倒幕の密勅」の先手を打つ

「尊王」を叫ぶ薩摩はいよいよ政治改革へと動き出します。
徳川幕府主導の独裁政治を一新するために慶喜を将軍職からタダの一大名に引きずり降ろそうという作戦で、まずは中央に返り咲きたい下級公家・岩倉具視を使いニセモノの「倒幕の密勅」をでっちあげました。

慶喜は、倒幕の勅許が下るとの情報をキャッチします。

落ちぶれたとはいえ慶喜と徳川幕府を見くびっちゃいけません。
その政治的スキルや情報収集能力は、雄藩と言えども足元に及ばないほど高いのです。

天皇の勅許が偽造されるなんてありえないことですから、慶喜はそれがニセモノとは思いません。
仮に天皇が言いくるめられたとしても、ニセモノでもなんでも勅許は勅許です。
勅許が下ったとたんに「朝敵」になるわけで、ひたすら天皇を崇拝する慶喜には耐えがたいこと、慶喜は、先手を打ちます。

「大政奉還」。1867年11月のことです。

朝敵にされてはかないませんし、無益な内乱を避けること、このままの将軍職では政治の舵取りは出来ないことを考え、政権を朝廷に返上したのです。

とはいえ朝廷に政治ができるはずもなく、慶喜には政治はこのまま私がコマとなって働きますので、という思惑がありました。

薩摩は驚きました。
慶喜を失脚させる理由を失って、ニセモノの倒幕の密勅を一旦引っ込めます。

状況は、慶喜の狙い通り大政奉還と言いながら政権を返上されてもなすすべのない朝廷が相変わらず慶喜に一切を任せていますし、将軍職を自ら退いた慶喜に対する周囲の評価がことのほか高い!

追い詰められた西郷・大久保はまたも岩倉具視を使い新たなクーデターを計画します。

まだ15歳の明治天皇を抱き込み、岩倉の私邸に薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の五藩の代表を集め「王政復古」の協力を求めました。

追い詰められた西郷が「王政復古」クーデターを起こす

西郷、大久保は、「王政復古クーデター」を決行した際に諸藩がどう動くか、綿密に調査しました。

その結果、徳川慶喜本人はむしろ同様の志を持っていると見られたし、諸藩にはそれほど重大な抵抗勢力はなく、多少のことが起きても対処可能、と判断することができました。

ただひとつ、徳川幕府制、旧体制の存続を図ろうとする会津藩と桑名藩は大問題でした。
徳川の親藩であり軍事力もある巨大藩ですし、朝廷とも懇意である両藩です。

西郷・大久保を中心とする反幕府派がクーデターという手段にこだわる、もしかしたら一番大きな理由がここにありました。

王政復古クーデター決行後、軍事行動に出るとすれば「会桑」以外になく、この最大の抵抗勢力を叩き潰すことによって他の抵抗勢力すべてを抑えることが出来る。

なおかつ会津藩、桑名藩はそれだけ孤立しているということであり、もはや加勢する藩はありえず、勝算は十分にある、と見ました。

会津藩の動向はすでに周知のことであり、後藤や岩倉も西郷・大久保と同じ見解でした。

ここで重要なのは、会津、桑名の両藩が武力で抵抗してくるならばこの際一気に叩き潰せる、むしろ来い!来てくれ! という思惑が見て取れることです。

クーデターという手段を選んだのは、会津・桑名を挑発し、ぶっ潰す! ためだったのかもしれません。

1867年12月9日、御所を警備する会津藩を押しのけ五藩は御所を封鎖、岩倉は明治天皇を臨席させて「王政復古の大号令」を発しました。

五藩はそれぞれ軍を上洛させ、御所の周囲には五千の兵力が集結していました。
その中には長州の、凶暴な奇兵隊を含む約千名の兵が含まれていました。

「会桑」に対する警戒と、反抗勢力に対する威嚇です。

つまりこれは、
明治天皇を人質にして、「反幕府派の公家と薩長主導の新政府」を樹立した軍事クーデターだったのです。

1868年1月3日。 新政府樹立。

900年以上続いた摂関制度や、260年余に渡る江戸幕府が、これで完全に解体されることになりました。

クーデター直後、新政府初の会議「小御所会議」は揉めに揉めたそうです。

表面的な首謀者岩倉は「八月十八日の政変」で追放され最近まで蟄居の身でしたし岩倉派の少数の公家衆も下級公家。

真の首謀者、西郷も大久保も下級武士です。

諸藩がクーデターに一応協力したのは、余計な戦争を避けたいし、より強者に付くという日和見であって、100%反幕支持でもないし、こんな下っ端の強引なやり方には一言も二言もあるのです。
なにより「王政復古」が成ったのは慶喜の「大政奉還」があったからこそなわけです。

クーデターを起こした反幕府派と旧幕府派は、もちろんことごとく対立します。

慶喜はというと、「大政奉還」で目論んだ「徳川主体の新政府」はなくなりましたが、二条城で静観の構えながら善後策を練ります。

静観できないのが、やはり「会桑」でした。

守護職屋敷で待機する容保は怒りに震え、会津藩と桑名藩は想定通り(?)即時開戦の勢い、守護職屋敷付近では会津藩兵と薩摩藩兵との殺傷事件も起きます。

西郷は両藩の逆襲を今か今かと待ち構えるように神経を尖らせています。

慶喜は両藩をなだめ、両藩を連れて二条城を出て大阪城へ移ります。
「しばらく大阪に滞在し、両藩の気持ちが落ち着いたらそれぞれを国元に帰します」ということで両藩の暴発を未然に防いだのです。

これがことのほか奏効し、慶喜人気は更に上昇、倒幕派の公家代表・岩倉具視は慶喜の議定職就任を提案し、薩摩側も了承するのです。

これを皮切りに、なんと、慶喜の処遇その他諸々の案件が慶喜支持の旧幕府の面々の意向が優先されるように流れていきます。

まぁ色々な反発がある中、とりあえず旧幕府側との融和的な関係を維持しつつ、これからのことを考えようよ、という風向きになり、西郷も渋々承知せざるを得ません。

そうなると政府の要職は身分の高い人、実績のある人になるわけで、西郷など下っ端は「下の参与」止まり、常に「上司」の下に置かれる立場で、中央政治の実権を握る立場には程遠いことになります。

薩摩藩にしても西郷・大久保はむしろ孤立していたといいます。

そもそも薩摩藩としては討幕は絶対反対が総意でした。
薩摩藩主・島津忠義の父で「国父さま」と呼ばれた前藩主・島津久光は常に公武合体を推進し、生涯西郷と合い入れることはありませんでしたが、この時も幕府を支えることこそ尊王であると固く信じていたのでした。

なにやらクーデター首謀者よりも、幕府や慶喜が「主流」のようになって来ました。

なんだかんだいっても巨大徳川の将軍様・慶喜と、260年続いた与党は強い!! ということでしょうか。

結局西郷・大久保の完全な敗北、クーデターは失敗に終わりました。

ところで土佐藩の坂本龍馬は慶喜の大政奉還に感心し、慶喜を見直して、慶喜を含めた新政府のために「新政府毛領案」をまとめますが、直後に暗殺されます。
京都守護職配下の見廻組(みまわりぐみ)の仕業とされていますが、どうでしょう。

せっかく燃え上がった内乱の火を消すようなマネをして、とか、知りすぎた男、という理由なら、
グラバー、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイルド、薩摩藩、長州藩、土佐藩の後藤象二郎や岩崎弥太郎にも暗殺の動機はある、とする説も多いのです。

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