戊辰戦争、東北戦争と会津藩の悲劇 -明治維新11-

崩れそうな会津城
崩れそうな会津城

戊辰戦争150年。
今年、平成30年は「明治維新150年」として記念事業が各地で行われていますが
東北の人々、とくに「会津藩」の地域の人々には「維新」よりも「戊辰150年」なのだそうです。

「会津戦争」を含む「東北戦争」を知れば、戊辰戦争とは何だったか、なぜ会津の悲劇なのかがわかります。
これ以降、第二次世界大戦まで、近代日本の戦争は、「戊辰戦争」に端緒があるのかもしれません。

鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、幕末から明治にかけての数多くの戦争の総称ですが、新政府軍の敵、徳川と会津を征伐する戦争にほかなりませ...
戊辰戦争で圧勝した明治政府は「版籍奉還」「廃藩置県」を断行し、近代国家日本の第一歩を踏み出しました。 「藩」を廃止し「県」にして「政府」が...

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会津を討て! ー奥羽越列藩同盟と会津藩の悲劇ー 

東北戦争の始まり

「新政府」とはいいますが、その実態は薩長であり、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允です。

薩摩藩も長州藩も「藩」としてこの人たちを支持していたわけではありません。
むしろ主君である藩主を無視して、下級武士の彼らがどんどん「支配者」になってゆくのを苦々しく思っていました。

薩摩藩も長州藩も、内部は複雑に分裂していたと見られます。

「明治維新」は薩摩藩と長州藩の英雄が革命を起こして成ったものではなく、
「今の徳川幕府の政治ではダメだ」と強く思った薩摩の西郷、大久保、が行動を起こし、虐げられ続けた長州の木戸がそれに乗った、ということではないかと思います。

「王政復古の大号令」以前、薩長の望む「新しい政権」は、「公議」「公論」を尊重し、諸外国の脅威に対抗しうる日本を目指す政権だったはずです。

反幕派も、徳川幕府内でも、常に中心にいる「一会桑」が問題でした。
特に強大な軍事力を持ち、強力な保守である「会津」がいつも行く手を阻みます。

「王政復古の大号令」以後、薩長の思惑が外れて旧幕府勢が盛り返した時、相変わらず「一会桑」が行く手を阻むと感じた時から、薩長の望みは「一会桑」の排除であり、「一会桑排除のための」倒幕へと変化したのです。

「一」は徳川慶喜、江戸城が明け渡しとなり、すでに「謀反」の兆しもありません。

「桑」の桑名藩でさえもほぼ恭順しました。
(桑名藩は、藩としては恭順し藩存続の道を選びましたが元藩主で容保の弟定敬と一部の藩士は会津藩や旧幕府軍と協力して抗戦しました。)

「その他の旧幕府勢」も眼中にありません。

目指すは「会」のみ

なぜそれほどまでに「会」を憎むのか。

長州藩は、かつて京都守護職会津藩に、松平容保に完膚なきまでに叩き潰され「朝敵」にされた怨念があります。

今、薩長が天下を取り新しい時代を作ろうという時、
薩長にとって会津は「旧体制」「旧思想」の権化であり、封建的で一切の改革を否定する保守主義の最たるものでした。
会津藩の強力な軍事力・戦闘力も看過できませんでした。

西郷は、これを潰してしまわぬことには永遠に夜明けは来ない と思ったでしょうか。

禁門の変以来、会津藩に恨みを持つ長州は、どうしても報復せずにはいられなかった でしょうか。

関東を制圧した新政府軍は猛烈な勢いで北上します。

これ以上内戦を広げて何になるというのか?

それこそ諸外国は内戦につけ込み、どんな動きに出るか計り知れず、これ以上日本の恥を晒し外国の干渉を招くことは避けるべき。

「会津討伐」は薩長の私怨だ。

このような新政府批判が「会津追討反対」の声を拡大する中、新政府軍はいよいよ東北へ迫ります。

新政府は関東を制圧しながら、仙台藩と米沢藩に会津を討てと命令します。

両藩とも会津藩とは友好関係にあります。
特に味方はしないとしても、少なくとも「討つ」理由はひとつもありません

薩長に借りがあるわけでもなく、へりくだる理由もありません。
新政府が成ったと言ったって、直接政権構想の説明や協力要請があったわけでもないのです。

それなのになぜ、頭の上から「会津を討て」と命令されなければならないのかわかりませんでした。

「薩長などわずか二、三の諸藩のよる新政府など認めることはできない」
「薩長は王政復古の名を借り奸計をもって天下をおのれのものにせんとしている。これは日本を危うくするものだ」

というのが仙台藩上層部の見解でした。

しかし拒否すれば朝敵です。

困った仙台藩は会津藩と打ち合わせ、空砲を打って攻め入るフリをしながら、会津藩に恭順するよう勧めますが会津藩は拒否します。

会津藩は、ことはそう簡単には収まらないと思っていました。

それになにより、
恭順したら会津藩は賊軍だと認めることになります。
命がけで朝廷と幕府を守り尽くしてきた会津藩はどう間違っても「朝敵」でもなければ「賊軍」でもないはずです。

ただの一度だって朝廷に弓を引いたことはないのに「朝敵」にされるのはあまりに理不尽です。

仙台、米沢の厚情に感謝しながらも、

会津藩は会津の正義のために「死をもって会津を守る」と明言します。

奥羽越列藩同盟

庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしたことで「朝敵」とされています。
庄内藩にしてみれば仕掛けたのは薩摩であり、濡れ衣だと憤りました。

庄内藩と会津藩の利害は一致しています。
もとより会津と戦争をする気などありません。

庄内藩と会津藩は同盟を結び、その後仙台藩はじめ東北諸藩に声をかけ、「奥羽列藩同盟」が結成されます。

しかし薩長の強大な軍事力の前に、果たして戦えるのか、勝てるのか、時代に逆行しているのではないかと考える人もいます。

実際、各所で始まる戦闘に敗れる部隊も多く、
このままでは多くの犠牲者が出るばかり、会津藩は、断腸の思いで降伏と謝罪を表明することにします。

これがきちんと京都に届いていたら・・・あるいは歴史は変わったのかもしれません。

仙台藩主・伊達慶邦新政府軍・奥羽鎮撫総督九条道孝会津藩の嘆願書を渡すと、九条総督は、部下たちは必ず異論を唱えるだろうが拒絶されれば生きて京都に帰らぬ覚悟、として受理します。

仙台藩主、米沢藩主は奥羽の正義を理解してくれたと喜びます。

が、案の定、九条総督の部下、下参謀世良修造はにべもなく拒絶、嘆願書は新政府首脳へ届くことはありませんでした。

会津は世良を憎みましたが、世良を斬殺したのは仙台藩でした。

東北諸藩は、会津救済もありましたが、何よりなぜこの戦争をしなければならないのか、
なぜ薩長はこれほどまでに強引で高飛車な態度で「命令」するのか、
そうしたことにものすごく嫌悪感をいだき、反発しました。

薩長首脳が東北へ送り込む「総督」や「参謀」は何の権限も持たない、「決定権」のない人や若造ばかりで、平和的解決の道を探ろうにもお話にも何にもならないのです。

それなのに強引に押し入っては「資金を出せ」といい、そこでの生活のすべてをまかなわせ、反抗すれば斬り捨てる、傍若無人で無礼極まりない乱暴狼藉の数々です。

これのどこが「官軍」か。
真の「官軍」のすることではない。

結局、会津藩はそうした「新政府」=薩長 が唱える「倒幕」の生け贄にされたのです。

「奥羽列藩同盟」の盟主は満場一致で仙台藩となり、その後、これに北越6藩が加入し「奥羽越列藩同盟」となります。

「奥羽越列藩同盟」は、「賊のような官軍」に、「薩長の革命政権」でしかない新政府に、断固NO!を言うために戦った、戦うしかなかったのです。

西郷、大久保たちは「東北の独立政権樹立」の芽があることを察知しました。
奥羽越列藩同盟と宿敵会津を徹底的に追い詰め、完膚なきまでに叩きのめしたのが「東北戦争」です。

薩摩・長州・土佐藩を中心とした西日本諸藩からなる新政府軍は欧米列強の大量殺戮兵器にモノを言わせてどんどん、どんどん進軍します。

「官軍」は、進軍しながら暴行、強奪、強姦はあたりまえ、逆らえば女子供も容赦なくその場で殺しました。

「奥羽越列藩同盟」は次々と脱落し、ついに会津藩は孤立し、「会津戦争」になだれ込みます。

会津鶴ケ城まで攻め入られ、約1ヶ月、籠城戦を続けました。
会津城には1日に2,000発の砲弾が浴びせられた日もあったそうです。

「八重の桜」で、綾瀬はるかさん扮する八重が果敢に戦うクライマックスは、この会津城の籠城戦でした。

会津藩は最後まで、新政府軍が辟易するほど強かった!

ですが、これまで。
もうこれ以上は無理、これ以上死んではいけないと観念した容保。
とうとう白旗を掲げ降参します。

崩れそうな会津城

崩れそうな会津城

会津城にはもう武器も食糧もありませんでした。
城下は目も当てられない惨状、血の海でした。
会津藩は生き残った者がいるのが不思議なほどボロボロでした。

ボロボロになった会津藩は、戦争に負けた犯罪者としてさらに過酷な運命を強いられます。
会津の人々約1万8千人は本州最北の地、下北半島に流されたのです。

この新たな会津藩の「領地」は「斗南藩」と命名されました。
極寒の地で、草の根を食べるしかないような過酷な生活でたくさんの人が命を落としました。

箱館戦争 ー戊辰戦争の終結ー 

江戸の幕臣の家の次男として生まれた榎本武揚は幼い頃から学問を好み、ジョン万次郎の私塾で英語も学びました。
1862年、27歳の時オランダ留学生9人のうちの1人に抜擢され、蒸気軍艦開陽丸(かいようまる)建造監督官を兼ね留学を命ぜられました。

この頃のオランダはヨーロッパの貿易の中心であり、優れた外交と開運力を誇っていました。
榎本はここで近代海軍の最新技術や船舶運用術、砲術、化学、国際法などを学びました。

1867年、帰国してみると幕府の弱体化は著しく、明けて1868年1月、鳥羽・伏見の戦い敗北の知らせを受け、開陽丸で大阪に向かいます。

大阪城に着いたものの主君慶喜の姿はありません。
なんと慶喜が江戸へ逃げ帰ったのはこの時、榎本不在の開陽丸に乗って帰ったのです。

榎本、愕然とします。

失意の中、海軍副総裁の榎本は悩んでいました。
新政府への恭順も拒み、江戸城無血開城とともに艦船引き渡しが決まった時、これを拒否して開陽丸など軍艦8隻とともに千葉方面へ逃走しました。

勝海舟に説得され4隻は新政府へ渡しましたが、開陽丸など主な軍艦4隻を残すことが出来、
勝は薩長との交渉の切り札として重要な榎本の軍艦を品川沖に引き留めていました。

東北戦争が始まると、榎本は留め置かれながらも悩み続けていました。

新政府に恭順するのか、薩長と徹底抗戦し、旧幕府軍の起死回生を図るのか。
「奥羽列藩同盟」と共に抗戦したとしても次々と脱落する藩もある中、勝算はあるのか。

新政府に屈すれば行き場を失う3万人の幕臣はどう生きてゆくのか、
榎本が一番気にかけたのはこのことでした。

一方で奥羽越列藩同盟と会津藩は、榎本の到来を今か今かと待っていました。

海路で物資を運搬していた薩長を軍艦で迎撃する作戦には榎本が不可欠、この海路作戦が最重要なミッションなのです。

榎本は榎本で、考えに考え抜いた末、蝦夷地(北海道)・函館に独立政権を立てようと決めます。

蝦夷地は視察に訪れたことがあってよく知っていました。
かつての留学先、北の小国でありながら貿易でトップに踊りでたオランダで学び、蝦夷地をオランダにしようと思いました。

1868年8月、榎本はようやく開陽丸はじめ8艦からなる艦隊を率いて品川沖を出航、
途中、奥羽越列藩同盟の支援のために仙台に入りますが、このころにはもう同盟とは名ばかり、恭順派の勢いが強くなっていました。

榎本は函館に向かいます。

蝦夷地を本拠とする松前藩は、新政府に恭順を示しながらも「奥羽越列藩同盟」にも参加する日和見策を執っていましたが、結局のところ新政府軍に付いていました。

榎本は松前藩を攻撃、函館・江差を制圧し五稜郭を占拠、ここを本拠地として準備に入ります。

日本を取り巻く諸外国と次々と会談し、国際法に則って独立政権を立てる旨を話しました。
1つの国に国際的に認められる2つの政権が存在する時、外国は中立を保つ、という国際法があります。

諸外国からおおむね好意的な感触を得る中、ついに独立政権「函館政権」(蝦夷共和国)樹立が現実味を帯びてきます。
榎本は刀を鍬に持ち替え、貿易を広げ旧幕臣たちが生きられる地を作り上げたかったのです。

ところが、頼みの開陽丸が嵐で沈没してしまいました。
海上の優位を保ち、国際的にも相当規模の軍備があるからこその独立政権の夢は音をたてて崩れました。

これによって一旦は「事実上の権力」として認めたイギリス、フランスを含め諸外国も日本の政権は「新政府のみ」と表明します。

新政府軍は時が来たとばかりに函館総攻撃に出ると函館市街を制圧、五稜郭に迫ります。

新政府軍から降伏勧告の使者が送られると榎本は拒否の回答とともに、オランダ留学時代から肌身離さず持っていた「万国海律全書」が消失するのを避けるため新政府軍海軍参謀に渡すよう託しました。

降伏を拒否し自刃しようとする榎本を側近が止め、全面降伏、投獄されます。

戊辰戦争は京都から北海道まで北上し、新政府軍勝利でここに終結しました。

薩長の「武力による全国制覇」が成ったのです。

世界の中の日本になるためにとても重要な「万国海律全書」を命がけで守った榎本。

受け取ったのは、後に総理大臣になる黒田清隆。
後に剃髪し榎本の助命を願い出たのも黒田清隆です。

榎本のオランダで得た知識、外交手腕、海洋技術は当時の日本人としては誰も持っていないものでした。
旧幕府にも、新政府にもいません。

特赦で出獄した榎本を、黒田は重用します。
大久保利通は頑なに固辞する榎本を説得し、政界へ招きます。

榎本は数々の功績を残し、1908年、73歳で没します。

一方で非難の声も多くありましたが、それらに対し、榎本は生涯口をつぐんだそうです。

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