江戸城無血開城をわかりやすく。勝と西郷の美談だけでない真実-明治維新9-

現在の皇居・正門
現在の皇居・正門

「江戸城無血開城」と言えば勝海舟と西郷の世紀の会談が江戸を戦火から救ったとする「明治維新」のハイライトとしてよく知られています。
この時代、徳川幕府が崩壊し大きな政権交代が行われようとする時に一滴の血も流さず、前将軍も処刑されずに済んだ奇跡的な出来事です。
それに至った直接の要因は勝・西郷会談ですが、様々な力が働いた「江戸城無血開城」でした。

鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争の始まりとなった戦争で、薩摩・長州が倒幕のために仕掛けました。 西郷たちがクーデターまで起こした「王政復古」...
鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、幕末から明治にかけての数多くの戦争の総称ですが、新政府軍の敵、徳川と会津を征伐する戦争にほかなりませ...

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朝敵・慶喜と会津藩は朝廷に謝罪し謹慎する

1868年1月、鳥羽伏見の戦いで新政府軍に「錦の御旗」が翻ったとたんに江戸へ逃げ帰った慶喜は、謝罪と恭順の意を表明し上野の寛永寺に籠り、自ら謹慎生活に入りました。

まずは江戸城へ行ったけれど、江戸城の大奥を仕切る天璋院が京都で失態をやらかした慶喜を許さず、江戸城へ入れてくれなかったので上野に行ったのです。
大奥、強し!

一緒に逃げて来た会津藩主・松平容保は、藩主を養子の喜徳(のぶのり)に譲ることを慶喜に申し出、朝廷に謝罪嘆願書を提出します。
徳川宗家が謝罪するなら会津藩も謝罪するしかありません。

江戸には、事態を聞いた会津藩士が会津若松から続々と集まっていました。
会津藩の面々は、憤懣やるかたなし、卑怯者慶喜を見限り、憎みました。

容保は将兵に告げずに江戸に戻ったことを「恥ずべきこと」と皆に詫び、会津はオレが必ず守る、と誓いました。

家臣たちはやり場のない怒り、悲しみに号泣したといいます。

容保も会津藩士も慶喜に失望し、だからもはや幕府の再興など微塵も考えていません。
ただ、断じて「逆賊」ではない、会津の正義と忠義、無実を世に訴えたいと強く思いました。

しかし、容保の出した謝罪嘆願書に対する返答はありません。
容保は会津に帰り、薩長の最新兵器に対抗できずに惨敗を喫したことからあらためて軍備の増強と近代化に力を入れます。

江戸城無血開城

「錦の御旗」のおかげで新政府軍が「官軍」となり大勝利、旧幕府軍が敗れ慶喜が逃げ帰ったことで近畿以西の藩はほとんどが「新政府」支持になりました。
そりゃあ官軍に付かなきゃ朝敵として潰されますから。

旧幕府のメンバーは抗戦派と恭順派に分かれています。

新政府内は、西郷、大久保が身分は低いながらも一躍表舞台に躍り出ます。

1868年4月、朝廷は「東征」(東方の地を征伐する)の大号令を発し、朝敵・慶喜と会津の追討を号令します。

これは「天皇親征」で、本来は天皇自ら陣頭指揮をとり戦をするのですが、まさか天皇が直接戦争に行くわけにはゆきません。
(外国では国王自ら戦の先頭に立つことがよくありますが日本の天皇はムリ。)

天皇に成り代わり陣頭指揮を執るのは東征大総督(東征の総大将)は有栖川野宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)。
和宮(亡き孝明天皇の妹)のかつての許婚です。

東征軍は東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍しました。

西郷は東征大総督府下参謀(下、です。上司が数人います)に任命されましたが、実際のところ西郷が東征の総大将のように戊辰戦争にかかわってゆきます。

薩長は慶喜の首と会津撲滅が目的です。

新政府軍はあちこちで旧幕府に味方する者、アンチ新政府の者達の反発を制圧しながら江戸へと進みます。

江戸では今や旧幕府の最高責任者・勝海舟と慶喜の警護にあたる山岡鉄舟が慶喜救済のために動きます。
喧嘩っ早い者は勝がみんな江戸から追い払い、慶喜の恭順をフォローします。
そして江戸を戦場にしてはいけない、火の海にしてないけない一心で、江戸総攻撃阻止に懸命でした。

1868年3月6日、新政府軍の先鋒が多摩川の岸まで迫っていました。
勝の命令で山岡は一人で敵陣に乗り込みました。

3月9日、ようやく東征大総督府下参謀・西郷と面会して、勝と会ってくれるように頼みました。

3月13日、江戸高輪の薩摩藩邸で勝・西郷のトップ会談が実現します。

こうした動きのある一方で、天璋院も慶喜の助命と徳川家存続を願う書状を西郷に送っていました。

イギリスのパークスも「東征」に至る経緯を新政府が諸外国に知らせていなかったこと、内乱によって貿易に大きな損害が出ること、慶喜が諸外国との和親に尽力してきたことなどを理由に江戸総攻撃を反対していました。

西郷は、勝との面談で大いに心を動かされたことも確かですが、天璋院やパークスの働きかけに思う所が多かったのでしょう。

西郷が3月15日に決行を指示していた江戸城総攻撃は寸前で中止されました。

これによって慶喜は斬首を免れ、家名存続と水戸での謹慎が認められ、江戸城明け渡し、武器、艦船の引き渡しが決まります。

4月11日には江戸城を明け渡し、慶喜は水戸へ向かいます。

同じ日、武器と艦船の引き渡しに抵抗した旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は、艦船ともども房州(千葉県)館山方面へ逃れます。

戦う気満々の旧幕府の反対勢力は武器を持って散り散りに逃走しているし、武器・艦船の引き渡しはうまくいきませんでした。

勝は慶喜の助命は出来たけれど幕府をまとめることは出来なかったのです。
勝は優れた人物だけれどあまり人望がなかったといわれるのは本当かもしれません。

朝敵・会津を追討せよ

勝海舟たちの働きで西郷は慶喜を生かし、江戸総攻撃を中止しましたが、なんせ下っ端なんですから。
すべては上司に報告し、お伺いをたてて許可をもらうという手続きが、どうしても必要なのです。

取り急ぎ新政府軍に総攻撃中止を伝えたあと、急いで京都へ戻り会議に提出します。

長州の木戸孝允はしきりに徳川の罪を言い、何がなんでも慶喜死刑を主張しましたが、西郷は倒幕は王政復古のためであり、慶喜に対する私怨ではないと、むしろ慶喜をかばいました。

議論しているうちに結局、勝が西郷に言った事と同じことを言っているのです。
しまいには、どうしても慶喜を殺すと言うならオレを殺してからにしろ!とまで言い出す始末。

結果、慶喜は水戸で謹慎、徳川の処分についても西郷の言い分が通り、天皇にも決済してもらって江戸城引渡しなどなどを進めることになりました。

しかし。

薩長の「東征」の意志は固く、勢いを増すばかりでした。
東北方面に散った幕府軍を追う形で北を目指します。

特に会津は、会津だけは完膚なきまでに征伐しなければ。

会津藩は、鳥羽・伏見の戦いで先に発砲したことで朝敵とされ、庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたとして朝敵とされていました。

諸藩の反論をよそに新政府は会津追討へ

しかし鳥羽伏見で先に発砲したのは新政府軍、薩摩藩邸焼き討ちも、薩摩藩が先に旧幕府側を挑発したから、という疑念が強く残ります。

それに、慶喜は完全に恭順し、もはや歯向かう意図などありません。

そもそも、長州征討の時、会津藩は寛大な処置を主張したではないか?
王政復古の時だって、長州藩には寛大な処置がされたではないか?

新政府内部でも会津を擁護する声は多かったし、「東征」に反対する声もあったといいます。

会津追討は、傍から冷静に眺めている諸藩にはなおさら、特に関東以北の藩にはかなり受け入れがたいものがあります。

第一、これ以上内戦を広げて何になるというのか?

それこそ諸外国は内戦につけ込み、どんな動きに出るか計り知れず、これ以上日本の恥を晒し外国の干渉を招くことは避けるべき。

新政府の中でも、会津追討に反対する人たちは会津追討は薩長の私怨だと非難しますが、薩長の強硬姿勢は変わりません。

対する会津藩は再三恭順を願い出るのですが・・・。
新政府からの返答が一向に来ません。

そうであれば「会津の正義のために戦うしかない」ことになってゆくのです。

江戸の薩摩藩邸が焼かれたことで「武力による倒幕」をはっきり意識した西郷と大久保が「鳥羽・伏見の戦い」を引き起こし、会津藩の謝罪と恭順を受け入れずに東北戦争へと向かうのです。

薩摩と長州、特に長州には徳川と会津への積年の恨みがありましたが、要するに、「新政府」は何も決められないのです。

薩長の思惑が成り行きを作っていくと言うか、「新政府」にはまだまだ実態がない寄せ集めなのです。

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