【西郷どん】西南戦争はなぜ起きたのか。西郷と大久保と木戸は・・

敬天愛人
敬天愛人

西郷どんはついに西南戦争の終盤まで来ました。次回最終回を残すのみです。
西南戦争は1877年2月14日~9月24日、7ヶ月もの長い戦いになりました。
”明治維新の終わり” はどのように描かれ、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允はどのような状況で、なにを思い最期を迎えるのでしょうか。

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鹿児島を偵察せよ

西郷隆盛暗殺を 企ててのは誰か。

大久保利通の指令「シサツ」は、「視察」か「刺殺」か

大警視・川路利良(日本警察の父!)は、本当に西郷暗殺を画策したのか。

確かに政府首脳は岩倉具視(加山雄三さんのひいひいおじいさまですって!)も大久保利通も、鹿児島と西郷のことはとにかく気になって気になって仕方がなかったのです。

この頃は日本全国で廃藩置県だの県令(県知事)だのと制度はどんどん変わってよその土地の人が県政を行ったり、暦は太陽暦になるし、「廃刀令」で刀は取り上げられるし、おまけに「士族禄制改革」で禄を(お給料を)減らされるし、ってことで不満の溜まった元士族が各地で反乱を起こしていました。

そんな中で鹿児島は、政府の政策を受け入れず完全に時代に逆行していました。
禄制も変えず、暦も太陰暦のまま、刀は武器庫にしまわず各家に置き、県令・大山綱良(西郷の郷中時代からの先輩)は、元藩主・島津久光のご機嫌をとりながら苦労していました。

西郷は「私学校」を建て、今にも暴動を起こしそうな若者を集め、農業・学問・武術を教えていました。
西郷にしてみれば、切磋琢磨して、新しい日本を造る力になって欲しいという親心(?)に尽きる心境だったのだと思います。

他県からも西郷を慕って大勢の士族が集まり、次第に巨大化するこの「私学校」には有能な人材も豊富でしたから、県令・大山は県の要職にも私学校の生徒を多く採用しました。

さて、政府はたびたび鹿児島に探りを入れます。

公家の岩倉は基本的に士族を信用していないし、大久保は絶交したとはいえ西郷をよ~く理解しているからこそ政府を離れた西郷の存在が大きい。
いつも自分のそばにいてくれた西郷がいないことが、大久保にとってどれほど堪えていたことか。

岩倉も大久保もわかっています。
西郷の絶大な人気、人を惹きつける魅力、強力な統率力、まっすぐな気質。

もし、西郷が鹿児島で軍隊を持ったら・・・。
政府のためにはぜひとも呼び戻したい逸材なだけに、ひとたび敵対すればこれほど怖い相手はいません。

独立国の様相を呈する鹿児島は今、どうなっているのか。
西郷は”何か”をたくらんでいるのか・・・?。

西郷の陸軍大将職と正三位の官位はそのままにしてあります。
密偵を送る一方でなんとか西郷を政府に復帰させようとするのですが、西郷にはもうその気はなく、すっかり農民として生き、若者の良き指導者として生きることに満足していました。

田舎暮らしのおかげで体調もかなり良くなっていました。

(2度の島流しの影響や、政府にいた頃のストレスは相当なものだったし、大久保と絶交した直後は歩くのも困難なほど肥満で、持病の心臓病も悪化していました)

西郷ほどの人物ですから、政府だけでなく各方面から政界復帰の進言もあったようです。
政府に不満を抱く人たちも、西郷先生はみんなのために東京に行って、政府を変えてくれ、と言いました。
でも西郷は全部断っていました。

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西郷をシサツせよ?

岩倉、大久保はいよいよ心配になり、大警視の川路に偵察を命じました。

木戸は、血の気の多い単細胞の士族たちが集まる鹿児島には政府の武器製造工場や火薬庫があることを心配し、大阪に移転させようと考えました。

大久保の指令は、この時点ではおそらく「視察」であった、と考えられます。
「鹿児島を視察せよ」、それがいつの間にか「西郷を暗殺せよ」という話に変化してゆくのです。

あるいは川路が大久保の指示「視察」を、「刺殺」と故意に読み替えたとの説もあるようです。

川路の指示で私学校に潜入した中原が私学校幹部の桐野や篠原に捕まり拷問され、無理矢理か成り行きか、「暗殺計画は本当」だと「自白」させられた時、西郷は湯治温泉に浸かっていました。

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ちょ、しもた! で、西南戦争開戦。

私学校の生徒たちは「暗殺を企んでいる政府」が火薬庫の火薬を運び出そうとしているという情報を聞き、その前に自分たちが取り出そう!と行動を起こしてしまいました。

連日、政府の倉庫から大量の火薬や武器まで盗み出し、関わった若者は千人ほどにもなったそうです。

私学校の幹部が西郷に報告したのは事件が起きてから数日後。

西郷は「ちょ、しもた!」と叫んで怒り心頭でしたが後の祭り。

明らかに国家に対する反逆であるし、重罪は免れない。
でも、考えてみれば彼らの行動は元はと言えば自分の責任、鹿児島が日本の近代化に後れを取ったのも自分が放置してきた責任がある、私学校を作ったのは自分だ。

西南戦争は初め、ハラをくくって皆で東京へ、政府に直談判しに行こう!ということで、戦闘態勢で出発したのではないように描かれていますが、西郷はハナから戦(いくさ)になると思っていたのではないでしょうか。

西郷は、彼らとともに流れに身をまかせ、彼らとともに死ぬことが出来れば反乱も終結し、国家の統一も叶うと考えたのではないかと思うのです。

西郷は西郷の人生を変えた生涯の師と仰ぐ島津斉彬の死以後、常に死に場所を求めていたようなところがあって、この時ようやくその場所を見つけた気がしたのかもしれません。

大久保が自分の暗殺を企てた。
西郷は、そんなことは信じなかったと思います。
西郷も大久保も、お互いをわかりすぎるほどわかっていたし、お互いの死を願ってなどいません。

でも、新しい日本のためには自分は死ななければならない、自分が死ぬことによってしか反乱は収まらないと、了解したのです。
そしてなお、私学校党の反逆の大義名分を、きちんと大久保に伝えたかった。
負ける戦とわかっていても、若者たちの主張を、自分の思いを、大久保に伝えたかったのだと思います。

「西郷どん」の歴史監修をした磯田道史さんはこのときの西郷を

「かつて月照と錦江湾に入水した時と同じような心持で」
(磯田道史著「素顔の西郷隆盛」(新潮新書))

と書いています。

西郷、桐野、篠原は、「政府に尋問の筋これあり」、政府に問いただすことがあって兵隊とともに出立します、人民が動揺しないよう保護を願います、という文書を県令・大山に提出して出陣します。

政府には、鹿児島の士族が出陣したとの報せが入ります。

大久保はむしろ喜びました。

血気盛んな私学校の一党が暴動を起こすなら、賊から西郷を切り離すチャンス!

ところが総大将が西郷だというではありませんか。

「うそだ!!」

大久保は信じません。

「本当です」

大久保は言葉を失いました。
愕然としますが、そこが大久保の強靭さ。
この際、独立国のような鹿児島と西郷を葬れば真の全国統一が叶うこと、そしていつも西郷にだけは勝てなかった自分が勝って、政府での立場を不動にしてこそ、理想の国家をつくることが出来る、即座に頭を切り替えたのです。

しかしこの時の大久保も心の奥底に西郷と同じ思いを抱いていたのではないでしょうか。

新しい日本のための決断なのだと、冷酷な決断をする一方で、ついに西郷を救うことが出来なかった無念に号泣しました。

それでも、立派な独立国日本をつくるために、今、大蔵卿・大久保利通の取るべき道を選び、心を鬼にして自分の仕事に徹した。
のです。

大久保は西郷征討の勅許を得ると、有栖川宮熾仁親王を政府軍総督に任命し、西郷の陸軍大将職と正三位の官位を剥奪、桐野や篠原の官位も当然剥奪しました。

政府軍の兵は全国から徴兵した兵で、武士だけでなく町民、農民など一般市民から成っていましたがよく統率されていましたし、資金も豊富、武器も最新式でしたし、その上有線電信技術や電報の活用もしていました。

西郷軍は言ってみれば気合だけ、策もなく武器もお粗末(旧式の火縄銃も使われたとか)で、1分間に1発しか打てない銃や、雨が降れば火薬が濡れて発射できないミニエール銃、あとは刀を振り回すだけの戦国時代に戻ったようなありさまです。

軍資金は県令・大山が全面的に支援して県費を投入しましたがそれでは足りず西郷札を発行したり、地域住民に食料、鉄など様々なものを供出させて代金未払いなども多々あったということです。

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西南戦争はなぜ長引いたのか?

西郷軍の総大将は当然西郷ですが、西郷は積極的に指揮を執ることもなく助言をする程度で、陣頭指揮は桐野や篠原でしたが彼らに策があるわけはなく、この戦争の終わり方を考えている者は一人もありませんでした。

追い詰められて長井に着いた時、西郷は「朝敵」となったことを知り、陸軍の軍服を焼き、西郷軍の解散を宣言します。

戦死を覚悟で戦うもの以外は降伏するもしないも自由としたところ、4千人ほどが降伏し、残ったのはわずか500人、鹿児島に戻り城山にたてこもった時には150人足らずになるまで戦かった、というか、敗走し続けました。

西郷はなぜ、長々と粘ったのでしょうか。
西郷自身、死を望みながら生きてきて、ここに至ってはなおのこと死を恐れていたわけではないと思われます。
もっと早い段階で自決するなり全面降伏をしていれば、多くの有能な、若い兵を死なせずに済んだし、罪なき民を苦しめずに済んだのに。

歴史学者・家近良樹さんはご著書の中で

「ひょっとしたら、西郷の中に自分のために死んでくれる者がいることを無上の光栄(名誉)だと感じる気持ちがあり、これがこうした不可解な行動に結びついたかもしれない」
(家近 良樹. 西郷隆盛 維新150年目の真実 (NHK出版新書) )

とおっしゃっています。
西郷自身はそれを自覚していたかどうかはわかりませんが、それはあったかもしれないと思うのです。

また、もちろん西郷を死なせたくない人は大勢いました。
県令・大山綱良は西郷軍に加担したとして捕らえられましたが、必死に政府に、大久保に訴えました。

最後の戦場、城山でも、官軍の本陣に直談判に行った者もいます。
「私たちが軍を起こしたのは西郷暗殺を企てた者の罪を問うためだ!」と訴えると

「それならばそのように相手が内務卿だろうと大警視だろうと告訴することも出来ただろう、中原の自白だけで軍をあげることがそもそも間違っている。言いたいことがあるなら西郷本人をよこせ。」
と言われます。

ところが初めから死ぬ気満々の西郷は、回答の必要はないと言って取り合いません。

西郷はきっと、暗殺計画のことを責めたいのでも正義を振りかざしたいのでもなく、西洋にかぶれてカネにまみれて腐ってゆく政府に、今一度 御一新(維新)の時の心を思い出して欲しかったのではないでしょうか。

御一新を実現したら日本はもっと良い国になると信じて幕府を倒し、たくさんの命を犠牲にしました。

このことを無にしないために、もうこれで士族の反乱を完全に終わらせるために、西郷は死ぬことを望んだのではないでしょうか。

西南戦争が終わる前に木戸孝允は亡くなりました。
死を迎える床で、「西郷、ええ加減にせんか!」と言ったのが最後の言葉になったそうです。

次回「西郷どん」最終回。
明治10年(1877年)9月24日、運命の日。
政府軍の総攻撃で被弾し歩けなくなった西郷が別府晋介の介錯でその一生を終えます。
直後に別府晋介も切腹します。

翌年、大久保が暗殺され、わずか1年足らずの間に「維新の三傑」がこの世を去るのです。

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