大久保藤五郎・家康に仕えた「菓子司」が江戸に上水道を造った

現在の小石川公園
現在の小石川公園

徳川家康の命により江戸に上水道を敷く大久保藤五郎。
武士なのにお菓子作りが得意で、家康は大久保の菓子(餅)が大好きでした。

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大久保藤五郎ってどんな人?

江戸幕府を開く前の徳川家康の期待に何とか応えようと奮闘する大久保藤五郎。
玉川上水、神田上水の元を造った人です。

大久保藤五郎(おおくぼ とうごろう)

本名 大久保 忠行(ただゆき)、藤五郎は通称。

生年月日 不明
没年月日 1617年8月7日。

徳川家康に仕え三百石を給されていた。

武士には珍しく趣味は菓子作り、それも職人級の腕前だったらしいです。

1563年(永禄6年)一向一揆で負傷、歩行が不自由になった大久保は、侍としての「槍働き」ができなくなり、戦役を免除されて三河国上和田に住むことになります。

以降、戦争に参加することが出来なくなった大久保は家康の陣営に菓子(餅)を献上する役目「菓子司」となります。

家康は大久保の作る菓子をたいそう気に入り、大久保の菓子だけは毒見もつけずに食べたそうです。

三方ケ原(現・静岡県浜松市)の戦いでは大久保がまんじゅうを浜松の羽入八幡に献上し戦勝祈願した際、境内で家康が嘉定通宝(中国の貨幣)を拾ったことで命拾いにつながったという逸話があります。嘉定通宝の「嘉」と「通」は「かつう・勝つ」に通じることから縁起が良いとされていました。

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家康に江戸の上水整備を命じられる

三方ケ原の戦いは織田信長側に付いた徳川家康 VS 武田信玄の戦いです。

まだまだ戦国の世は続き、織田信長が本能寺の変に倒れると、一瞬、明智光秀の「三日天下」となるも、豊臣秀吉が「天下統一」に乗り出します。

家康は「鳴くまで待とう時鳥」の人、辛抱強く「時の殿」に仕え、次の天下取りのチャンスを窺っていました。

1589年、豊臣秀吉は「五ヶ国総検地」で、徹底した領地の実情把握と再配分を行いました。

家康は、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条の領地であった関東(現在の東京都と、神奈川県・千葉県の一部くらいの広~い地域)が与えられ、秀吉の「行け」の一言で飛ばされました。

石高は大きく増えましたが、そのころの関東地域は家康が驚くほどのド田舎です。
実質は、それほど禄は上がらなかったといいます。

「江戸」は、太田道灌が1456年頃江戸城を築城しましたが、ただの田舎の城下町、北条の残党が悪さをしていて物騒だし、「低湿で水浸しの大地」、海水が流れ込む低さで井戸も掘れない地域もありました。

家康は老朽化したお粗末な江戸城の修繕・拡張と城下町の建設をしなければなりませんでした。

1590年(天正18)、家康は江戸入りに先立ち、大久保藤五郎に江戸の上水整備を命じます。

これを受け藤五郎はわずか3カ月余りで小石川上水(のちの神田上水)を完成させ、この功績により家康から「主水」の名を与えられました。
また、足の悪い大久保には馬を使うことが許され、名馬「山越」が与えられます。
これはとても異例なことでした。

「主水」は普通、「もんど」と読みますが、大久保家では水は濁りを嫌うとして代々「もんと」と名乗りました。

2019年NHK正月時代劇「家康、江戸を建てる」前編では佐々木蔵之介さんがこの大久保藤五郎役を演じ、江戸に水路を引くまでの様々な苦労が描かれました。

後編は後藤庄三郎光次、こちらも柄本佑さんがぴったり役にハマっていました。

やはり家康に見いだされた彫金師のお話、橋本庄三郎=後藤庄三郎光次、家康に見いだされ江戸時代の小判を造った人で書いています。

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