日本人で初めてオリンピックに出場した金栗四三は、のちに「日本のマラソン王」「箱根駅伝の父」などと呼ばれるようになりました。
2019年箱根駅伝で「金栗四三杯」というMVPを受賞したのは東海大の小松陽平(3年)さん、8区を1時間3分49秒で走り、区間記録を22年ぶりに更新して東海大を初優勝に導きました。
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金栗四三の生い立ち
金栗四三 (かなくり しそう)
明治24年(1891年)、熊本県熊本市、福岡にほど近い春富村(現・玉名郡和水町)で生まれました。
4男4女の7番目。
四三の名は、父信彦が43歳の時に生まれたから。
小さい時から病弱で泣き虫だった四三だけれど、義務教育4年の小学校卒業後は片道6キロ離れた高等小学校へ通いました。
同級生15~6人が、その片道6キロ、往復12キロの「通学路」を走って行こうということになって、四三は付いて行くのが大変でした。
今のように舗装された道ではないし、でこぼこだらけの道です。
それでも四三は、走っているうちに呼吸の仕方や走り方のコツを覚えると今度は走るのが楽しくなって、どんどん速く走れるようになりました。
もっと近い地区の生徒よりも四三たちのほうが早く登校して先生に褒められると嬉しくなって勉強も頑張ります。
高等小学校での成績はいつも1、2番になるほどで、中学校へ進学すると第二学年で特待生になりました。
中学校入学前に父を亡くし、学費は兄が引き受けてくれていたことを気にしていた四三は、その後東京高等師範学校へ進学しました。
師範学校は卒業後に教職に就くことを条件として、授業料無料、生活も保障されたのです。
師範学校の校長・嘉納治五郎(講道館柔道創始者)は、生徒全員に運動部所属、体力増強を求めていました。
四三は師範学校で年二回行われる長距離走大会が楽しみでした。
春は3里(12キロ)、秋は6里(24キロ)を全校生徒が走りますが、ゴールすると飲み物や食べ物の模擬店があるのです。
明治43年、1年生の2学期に秋の長距離走大会で3位になりメダルをもらいました。
2年生になった時は四三に敵う者がいませんでした。
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10里(40キロ)を走るマラソンって、なんだ?
この頃、各地で「長距離走大会」のようなものが行われてブームのようになってきていました。
明治44年、第五回オリンピック大会(ストックホルム)の予選会の記事を読み、種目の中に25マイルの”マラソン”があるのを見つけました。
オリンピックに「予選」があることも、「マラソン」という言葉も、この時初めて知りました。
25マイルは40キロ、10里です。
四三は、自分がどれだけ走れるのか試そうと、予選会に応募します。
誰も10里を走り続けたことなどありません。
6里の練習を繰り返せば10里は行けるだろう・・・とは思ったものの、どう練習すれば良いのかもわかりませんでした。
師範学校の先輩に大阪での長距離走に出たことのある人にアドバイスをもらいました。
「汗をかくと疲れるから、練習を始めたら最初に汗を出し切ってしまうと楽だ」
なるほど、汗を出さないようにするには水分を摂らないことだ、と考えて水分絶ちを3、4日したところで体調を崩した四三。
当時はそんな程度でした。
日本ではまだ「スポーツ」という言葉もなじみがないくらいでしたし、「陸上競技」と呼べるレベルのものもありませんでした。
日本の「体育」を変えた嘉納治五郎と、世界の「体育」を考えたクーベルタン男爵
日本のスポーツ事情がそんな程度の頃、師範学校の校長・嘉納治五郎は「体育」についての考え方が図抜けていました。
- 青年は体を強くするよう努力すべきで、そのためには僅かな時間を活用して運動すること
- 運動はただ体のために良いだけでなく、自分に対し、他人に対しての道徳上の品位向上に役立つ
- 運動の習慣を若い時に身につけておけば、生涯それは続き、健全な人生を送ることが出来る
今では誰もが当たり前に思っていることだけれど、当時はこんなことを言う人はいなかったのです。
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一方、フランスでも「体育」を改良しようと考えていた人がいます。
クーベルタン男爵です。
クーベルタン男爵は、嘉納治五郎と同様のことを考え、それに加え、体育は国際的に友好を促進するものでなければならないと考えていました。
欧米の白人が世界中で有色人種を迫害し、奴隷にし、侵略戦争に明け暮れていた時、フランスにもこんなことを考える人がいたのですね。
アジアもアフリカも、一緒に試合をしよう!
スポーツの大会があるたびにクーベルタン男爵はみんなに働きかけますが、
そんなことを本気で考えているのか! と取り合ってくれません。
「国際的な友好を促進する体育」は、古代ギリシャのオリンピック競技大会を復活させるしかない、アジアもアフリカも参加する平和の祭典をやろう!と考えたクーベルタン男爵は、近代オリンピックの開催に全力で取り組みます。
そしてなんと!
クーベルタン男爵は嘉納治五郎に日本人選手の参加を依頼したのです。
(日露戦争で勝った日本は外せなかったでしょうね)
オリンピックに参加してもらうためには、まずその国に「オリンピック委員会」を設置してもらわなければなりません。
クーベルタン男爵は入念に調査をし、嘉納治五郎しか頼める人はいないと思いました。
嘉納治五郎はすぐに国内オリンピック委員会の設立に着手し、「大日本体育協会」(体協)を設立、自らが初代会長になりました。
そしてこの体協が出した予選会の記事を四三が読んだのでした。
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1回走ってオリンピック出場が決まってしまった!?
明治44年11月19日、予選会当日。
マラソンには12名が参加。距離はもちろん ストックホルム大会に合わせて25マイル。
服装もバラバラで、草鞋(わらじ)を履いた選手もいました。
四三は長そでシャツ、長ズボンに足袋の姿で、なんと優勝してしまうのです。
足袋は擦り切れ、半分裸足の足はかかとに血豆が出来、このあと歩くのにも苦労したそうです。
四三は1回走っただけで第五回オリンピック・ストックホルム大会出場が決定しました。
この時のタイムが2時間32分30秒。
第4回ロンドン大会の長距離優勝者の記録が2時間55分18秒で、これより23分も速い記録で大騒ぎになりましたが、これは25マイルの測り方が間違っていたのではないかとか、ロンドン大会は26マイル385ヤードだったことを知らなかったのではないかとか、何か色々ワケがありそうです。
ともかく明治45年5月16日、出発したのは
長距離走 金栗四三
短距離走 三島弥彦(東京帝大)
監督 大森兵蔵
団長 嘉納治五郎
たった4人だけでした。
新橋駅での見送りは相当に盛大で、大森監督の妻(アメリカ人のアニー・日本名アニコ)もいたそうです。
一行は敦賀から汽船でウラジオストック→シベリア鉄道でモスクワ→鉄道と船でストックホルム、16日間の長旅でへとへとになって到着、数日間は疲労で練習ができなかったそうです。
大会までの1か月間も、慣れない外国での生活、言葉もわからず、おまけに白夜の国での苦労はかなり負担になったようです。
身の回りのことも自分たちでしなければならないのに加え、胸に疾患を持っていた監督の大森兵蔵の容態が悪化し、その看病や世話もあって、四三は随行員の一人もいなかったことを嘆いています。
明治45年7月6日、大会入場式。
ストックホルム大会は5月5日~7月27日ですが、入場式は大会初日ではなく、最も大勢の選手が集まりやすい日に行われました。

日本人選手団は6名
日本はイタリアに続いて10番目の入場、「JAPAN」ではなく「NIPPON」と書かれたプラカードは四三が持ちました。
三島弥彦が日の丸を持ち、小柄な四三は大きな日の丸に隠れて人々からは見えにくかったといいます。
続いて嘉納治五郎、大森兵蔵、京都帝大教授・田嶋錦治博士、スウェーデン駐在・内田定槌公使。
日本選手団は合計6名の行進でした。
クーベルタン男爵は日本がオリンピックに参加したことをとても喜んでいたことでしょう。
マラソンには特に力を入れていたとのことです。
結果、そのマラソンにはヨーロッパ14か国47選手、北米はアメリカ12選手、カナダ4選手、アフリカ3選手、アフリカ(オーストラリア)1選手、アジア(日本)1選手が参加し、一応、”世界のすべての地域”から参加するという目標は達成されました。
現代になって、オリンピックパラリンピックの入場でどこかの小さな国(地域)のたった1選手を見つけると、思わず頑張れ~~と思いますが、この時はまさに日本がそういう立場だったのですよね。
そんなこんなで日本人初のオリンピックは困惑と疲労と緊張の中で本番を迎えました。
おまけに灼熱のストックホルム。
2020年東京オリンピックパラリンピックの猛暑が心配されていますが、まさにそんな暑さで、さすがの金栗四三も無事に走ることは出来ませんでした。
金栗四三の初オリンピックはどうなるのか?
続きは金栗四三が足袋で走ったストックホルムのマラソンは過酷なロードレースだったで。
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