金栗四三が足袋で走ったストックホルムのマラソンは過酷なロードレースだった

地下足袋を履いてスタート
地下足袋を履いてスタート

日本代表に選ばれた金栗四三は大会前年の日本代表選考会で長距離走用にと改良された特製足袋を履いてストックホルム大会に出場しました。なにせ世界記録を23分縮める記録を出した四三に日本全国の優勝の期待がかかっていました。

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過酷なオリンピックのマラソンコース

この前までのお話は 韋駄天・金栗四三はどんな人? 嘉納治五郎と日本人初のオリンピック出場!
「マラソン」は、ギリシャの古戦場マラトン(Marathon)の英語読みです。
イギリスのスポーツ辞典『Chambers Sports Factfinder』のマラソンの項には「クロスカントリーのタイムトライアル」と定義されているそうです。

それほどに本来のマラソンは自然の条件下で過酷なレースを展開するものだったのかもしれません。

少なくとも、現在の私たちが目にする平坦な道を完璧にガードされながら走るものではなかったでしょう。

マラソンの起源は、マラトンの戦いでギリシャ軍がペルシャ軍に勝利したことを伝えるためにギリシャ軍の兵士がマラトンの丘からアテネまでの36キロ余りを走り、報告後に絶命したことに由来します。

オリンピックを人々に深い感動を与えるものにしたいと考えたクーベルタン男爵は、アテネの第一回大会からこの”伝統的?な?”マラソンを取り入れ、人々は予想通り感動しました。
ストックホルム大会での過酷なコースも充分承知していたといわれます。

金栗四三と三島弥彦は日本人で初めてオリンピックに出場しました。

日本から16時間、船と鉄道を乗り継いで。
疲労困憊し到着後数日は練習を出来なかったといいます。

身の回りのことはすべて自分でしなければならないばかりか、持病で容態が悪化した大森兵蔵監督の看病もありました。
慣れない外国、しかも白夜の国で、線路沿いの安宿で、言葉も通じず、身体的精神的にもどれほどのストレスがあったでしょうか。

ストックホルムのマラソンコース。
マラトンの丘ではなく、スウェーデンのソレンテューナの丘。

ストックホルムの7月の平均最高気温は22度前後ですが数年に一度熱波に襲われることがあり、この日は日陰でも30度を超える異常な暑さで、この気温の中13時45分にマラソンはスタートしました。

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消えた日本人走者

スタジアムを出るとしばらく舗装されたゆるやかな上り坂が続き、歩いて行くのもキツイほどの急勾配の丘を登って、向こう側へ下るのも急勾配。

折り返し地点をまわって丘から離れるとゆるやかに下りながら森の細い道に入ります。
折り返し後は全体的に下りで、道はでこぼこ、右へ曲がったかと思うと左に曲がり、体は上下左右に振られ、これが35キロ地点まで続きます。

結局、金栗四三はゴールにはたどり着けず途中で忽然と姿を消したのでした。
スウェーデンでは「消えた日本人走者」として話題になりました。

四三に何が起こったのか。

当時、日本の徒競走は短距離、長距離にかかわらずスタートしてしばらくはゆっくり走り、終盤で追い上げるスタイルでしたが、四三はオリンピックでもいつもの通りに走り始めたようです。

他の選手に後れを取った四三はあわててスピードをあげたのか、

「途中で二、三十人抜いて折り返し点をまわり、これなら相当いけるぞと思ったのも束の間、脚が痛み出し汗が目に入り、十五マイルをすぎるあたりから意識がぼんやりし始めて、途中で水を飲んだりかぶったりしたのがなおいけなかったのか」
(「日本スポーツ百年」日本体育協会)

と述懐しています。

とにかく折り返し点を過ぎて26.7キロまでは確かにレースに参加していました。

「スポーツ百年」によると、スタートから「10マイルの地点で歩きはじめ遂に落伍した」とされています。

森の中を朦朧としながら下り、ついに意識を失ったのでしょう、「路傍に倒れていた」四三を見つけたペトレ家の人たちは彼を休ませ、介抱したことがわかっています。
四三が意識を取り戻したのは翌日のことだったそうです。

レースに戻れなかった四三は「日本人選手が消えた」という話になって広まったということですが、実のところどの地点で何が起きたのか、詳しくはわかっていません。

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粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん。

ただでさえ疲労が溜まっている上に異常な酷暑で、今でいう熱中症にかかったものと思われますが、他にも

  • 前半の焦りから無理にスピードを上げたこと
  • 日本からの長旅の疲れ
  • スウェーデンに来てからの猛練習の疲れ
  • 食べ物、言葉など不慣れな異国の生活での緊張
  • 白夜のために睡眠不足になった

など、敗因として様々なことが挙げられています。

スポーツライターの佐山和夫さんは、このほかに「国力の差」、「土壌の違い」があるとおっしゃっています。

オリンピック開催国への移動手段、宿泊施設のレベル、また、金栗四三や三島弥彦はオリンピックの代表に選ばれたといっても費用はすべて自己負担だったことも触れています。

四三も一時は断念したものの、嘉納治五郎の強い勧めもあり、地元の応援や寄付金でなんとか費用を賄うことが出来たとのことです。

「土壌の違い」は四三自身も語っています。

「マラソン、短距離の私たちの大切な練習はストックホルム到着後、数日の休養をしてから毎日続行した。マラソンの練習は、コースが田舎道で車も少なく、沿道は樹木が多く、走るにはよい条件が備わっていたが、舗装道路の堅さにはまいった。日本の足袋は早くそこが破れ、電報で日本から送ってもらった。また、道路が堅いため膝筋肉を傷め、練習に支障をきたして、これが大会のマラソン競争に影響することになった。」
(「日本体育協会75年史」日本体育協会)

金栗四三がオリンピックで履いた特製足袋

金栗四三がオリンピックで履いた特製足袋

東京高等師範学校に通っていた四三が日頃走っていたのは関東ローム層の柔らかい土。
四三にとってストックホルムの土壌が堅かったこと、舗装された道路ではそれはなおさらだったに違いありません。

日本の期待を一身に背負い、初めて尽くしの異国でマラソンに挑み、ゴールも出来ずに終わった四三の気持ちはいかばかりだったでしょうか。

レース翌日の四三の日記があります。

「大敗後の麻を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。余の一生の最も重大なる記念すべき日なりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重責をまっとうすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん。」

もって皇国の威をあげん。 ですよ。

どんなに重い責任を感じていたかと思うと、現代人には想像もつかないことでお気の毒に思えます。

後年、昭和29年に四三はこうも振り返っています。

「マラソンというのは耐久力ばかりではだめだ。スピードもいる。練習を根本的に建直してやれば日本人に決して不適当な種目ではないと(いうのが)その時の私の感想だったのである。」

マラソンや長距離の走り方、練習の仕方など、多くのことを肌で感じ、「いつの日か皇国のために」勝ちたいと思った四三は、のちに「日本のマラソン王」「箱根駅伝の父」と呼ばれるようになるのです。

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