亡くなった人はどうなるのでしょうか?
お骨を納めたお墓にいらっしゃるの?
遠い空の星になるの?
それともお仏壇にいらっしゃるのでしょうか?
お仏壇のお位牌には仏様の魂が宿ると聞きます。
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亡くなった方はどこに??
お正月やお盆にご先祖様の霊が帰ってくるとは言うけれど
どこからいらしてどこに滞在されるのでしょうね?
そしてどこにお戻りになるのでしょう?
迎え火も、お墓で焚いたり、家で焚いたり。
そういえばお墓参りに行って帰ってきて
お仏壇に向かって「ただいま」なんて言うし・・・。
そもそも、お墓にもお仏壇にも、
”我が家のご先祖様” が全員いるわけはない!ですよね?
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矛盾がいっぱい?
果たしてご先祖様は
お仏壇にいるのか、お墓にいるのか。
お位牌には魂が宿る、お骨はお墓にある。
肉体と魂が別になっちゃうの?
自分の体(お骨)のある所に魂も居たいんじゃないの?
なぜ仏壇やお墓が必要なのか、法要をするのか。
ご先祖様の霊が成仏するためじゃないの?
ご先祖様はいったい・・・どこにいるの・・・?
これには実は明確な「正解」はなく、
強いて「模範解答」があるとするならば
すべては今生きている者の解釈の仕方
だということになるのでしょう。
これではミもフタもない答えですね。
その、解釈の仕方 を 少しガイドしましょう。
仏教に霊魂は出てこないけど
インドで始まった仏教には「霊魂」は出てきません。
しかし、否定もしていません。
ブッダは霊魂の存在を認めていない、としている方もいらっしゃいますが、
表立って認めるとはしていないものの、
「たましいのこと」については原始仏典の中に出てくるのです。
インドでお釈迦様が開いた仏教は西暦500年頃に日本に伝わり、聖徳太子が法隆寺を建立し、仏教を日本に定着させたそうです。
このあとたくさんの宗祖があらわれ、たくさんの宗派が生まれるのです。
奈良時代に聖武天皇が「諸国に国分寺・国分尼寺を建立せよ」との詔を出し、全国にお寺が建立されました。
東大寺の大仏が建立されたのもこの頃です。

東大寺の大仏様
平安時代、最澄が天台宗、空海が真言宗を開き、
鎌倉時代には親鸞聖人が浄土真宗、日蓮聖人が日蓮宗を開きます。
そのほかにも浄土宗、臨済宗、曹洞宗など
現在、日本には十三宗五十六派あるといわれています。
もとは同じ仏教で、同じお釈迦様の教えを継承していても
何を一番重要とし、どう解釈して信仰のよりどころとするのか
というようなことは、当然ながら人によって違うのです。
ですから各宗教によって
- ご本尊(阿弥陀如来とか)
- 経典(般若心経とか)
- お唱えする言葉(お題目・南無阿弥陀仏とか)
が違いますし
お仏壇やお位牌、お墓のとらえかたの違い、祭り方の違いがあるのです。
これは同じ宗教の中でも宗派による違いがあります。
また、そもそも信仰する宗教をもたない方もいらっしゃるのです。
そこに民間の暮らしの中で生まれた習慣、言い伝えなどなど、さまざまにかかわるのですから言ってみれば「信ずるもの」は人の数だけあるのではないでしょうか。
お正月やお盆のお飾りひとつ、「これが正解」 は、ないのです。
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仏壇・お墓・法要は生きている人のためのものです
しかしひとつだけ、
どの宗教宗派にも、無信仰の人にも共通するのは
「今生きている人生をいかに幸せに生きるか」
ということです。
信仰はそのためにあります。
日本人は古くから 霊、幽霊、おばけ、魂(たましい)といったものを信じてきました。
無宗教であっても、
霊の存在などまったく信じない とおっしゃっている方も心のどこかで、「死後の世界はある」と考える方が大半ではないでしょうか。
そして、亡くなった方を思い
- いつまでも忘れずにいたい心
- いつまでもつながっていたい心
- もう会えないけれど大切に思う心
- 脈々と続いた我が家の歴史を思う心
- その先に自分もいるのだという自覚
こうした思いや感謝を、
お仏壇やお墓といった具体的なものとして形にすること、
お仏壇やお墓に手を合わせるといった行動にあらわすことは
明日を生きる力にするためのよりどころが
生きている私たちにこそ必要だから
に他ならないのではないでしょうか。
だからお仏壇を置き、戒名をいただきお位牌を置き、
お墓を守り、法要をするのではないでしょうか。
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けっこう自由に飛び回っているのではないかと。
私は多くの皆さんが思っていらっしゃるように
仏様は ”あの世” にいらっしゃると思います。
あの世とは
極楽浄土、彼岸(ひがん)、常世(とこよ)、冥途(冥土)、黄泉の国。
私たちが生きるのは
この世、此岸(このきし・しがん)、憂世(うきよ・浮世とも)。
冥土(冥途)や黄泉の国は暗黒の世界と解釈されることが多いのでこれが「地獄」なのでしょうか・・・。

「あの世」はある?
今の日本では人は亡くなると火葬されます。
我が家の菩提寺の和尚さんのお説によれば、「肉体の魂」はお墓に埋葬されたお骨に宿るそうです。
「心の魂」については、
見たり聞いたり読んだりした結果、四十九日の間、あの世へ旅立つための準備をし、この世へのなごりを惜しみつつ、閻魔大王の審判を待ちます。
私はそう解釈しました。
閻魔大王の審判で、
罪深き人は地獄に堕ち、
徳の多き人は極楽浄土に往くことが出来ます。
この審判期間は四十二日、この間に遺族が七日ごとの法要を行ない、お経を上げ、このお経が届けば罪を許されます。
(だからみんな、許されて極楽浄土へ往きます。)
残りの七日間で最終審判が行われ、四十九日目に判決が下るのです。
結局みんな、間違いなく極楽浄土へ往くのです。
「往く」とは、仏様の世界である「極楽浄土」へ往って生まれる、つまり「往生する」と言うことです。
あの世へ召された魂は、年に一度、お盆に帰省することが出来ます。
しかしあの世にいる時はお仏壇のお位牌やお墓を窓口にしていつでも私たちの声を聞き、私たちとつながっていて下さいます。
時折、家には帰れないけれどこの付近には来てみるとか、夢の中に出るとか、そんなことは出来るみたいです。
お墓は、祖父母まではそこにご自分のお骨があるのでこの世へお散歩に降りてきた際には気兼ねなく一息つける”よりどころ”となっていると思います。
ですから
日頃の”通信”の窓口であるお仏壇や肉体の魂が宿るお墓にもお参りをします。
特にお盆は、
お仏壇はお帰りになったご先祖様たちが集い、くつろがれる専用のお席(テーブル?)ですから出来るだけの振る舞いを、盛大にします。
仏となったご先祖様の魂(霊)は、年に一度、お盆にあの世からお帰りになりあの世へお戻りになるのだけれども、堂々と家に帰ってくるのが年に一度なだけで。
結局普段もちょくちょくこのへんに来ているのではないかと思います。
お墓で眠ってなんかいないし、
草葉の陰にもいません。
お空にもいないし、星にもなっていません。
山野にいらして私たちを見守ってることもないし。
けっこう自由に飛び回っているのではないかと。
だから私たちがどこに居ようと、呼べばすぐに来られるような近いところにいつもいらっしゃるのだと思います。
(いてほしくない時にも!)
ひょっとしてこれに近い?と思われることを「科学で証明」?した方がいらっしゃいます。
死後の世界は科学的に証明されていた?人は死んだら魂は宇宙に還る もお読みになってみて下さい。
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コメント
通りすがりの物でございます。
本文中に「閻魔大王の審判で、罪深き人は地獄へ、徳多き人は天国へ召されます。」
この文章中の「天国」って、キリスト教では「天国」と言いますが、仏教では「極楽」って言うって小さい頃に教えてもらったので、最近の方々はほぼ「天国」っていうのになんか違うよねって感覚があります。
通りすがりさん
おはようございます!
コメントをありがとうございます!!
まさに、確かに!おっしゃる通りです。
最初にこの記事を書いた時は何も気にせず、ほとんど無意識に書いていましたが、まったく違和感たっぷりですね。
さっそく直しました。
まだまだ勉強不足です。
ご指摘いただき本当にありがとうございます!
人の意識とはは脳の活動です。アイデンティティは脳にある記憶情報です。
脳が消えればそれを保存する手段はありません。
したがって死ねば意識もアイデンティティも消えます。
「霊」などというものは存在しません
死んでも霊がのこるなどというのは空気がなくても風がふくと考えるようなものです。
hknmstさん
おはようございます!
コメントをありがとうございます!!
そうですね、hknmstさんのおっしゃる通り、正しく考えれば脳の活動が完全に停止した時、その人のすべては消失するのだと思います。
「霊」とか「霊魂」とか、神も仏も、生きている人の脳の中にあるのですよね。
霊を見た、というのもその見た人の意識が引き起こした脳内活動でしょう。
すべては生きている人の”意識”であるけれど、それはとても大事で、生きる力になりうるものです。
憧れの人物や亡くなった愛する人が目の前に現れて自分を励ましてくれた、としたらそれだけで今日を生きる力になります。
その人を思ってお仏壇を設えたら、それが毎日の生きるハリになります。
それを自分の”意識”でなく”霊の存在”と思うことが出来るってことが、人間の身勝手でステキなところだと思います。
それは現実的に物理的にこの世に生きる現代科学の中ではそう思います。
しかし自分自身が死んではいない場合 本当に霊を否定できる証明できるものも無です。
私は現実派ですがこの事に関しては否定できるハッキリとした事は言えないのが今のところの答えではないでしょうかね!猿や犬が人間レベル文化や知識が絶対的にありませんよね。なので人間も科学だけでは否定できないもっと上の何かがあってもまったく不思議でないと言うのが正しいと思います。私も実際は何もないんだろうな~とは思っていますけどね。否定は知恵のない虫や動物がなぜ人間がテレビやパソコンや自動車を発明して使ってるのか意味すら理解できないと思うからです。すいません。
ひろみさん
おはようございます!
コメントをありがとうございます!!!
そうですね、本当に。
ひろみさんのご意見にも賛成します^^
私も実際は生きている人の意識の話だと思いますが、人が人を愛する、もしくは憎むなどの感情はその人がいなくなっても続くものですし、そうしたことと非科学的なことがどこかで結びついちゃうんじゃないだろうか、と思ったりもします。
まぁ、この考えすら私の意識であり、脳活動なんですが。
でも、本当に霊などいないことを明確に証明してくれた人もいないと思いますし、非科学的なことは現実にたくさんありますものね。
信じる者は救われる。でしょう。