【西郷どん】 西郷隆盛は本当に幕末の英雄なのか? 

西郷隆盛
西郷隆盛

1月7日から始まったNHK大河ドラマ「西郷どん」が話題です。
西郷隆盛役は鈴木亮平さん、第1話は幼少期の小吉、子役の渡辺蒼くんが良かったですねぇ!
渡辺謙さん扮する島津斉彬との出会いの場面は視聴者に第2話必見を約束させましたね。

第1話には西郷どんの3番目にして最後の妻「いと」(少女期・渡邉このみちゃん)も登場しました。
次回、はもう鈴木亮平さんが登場、渡辺蒼くん1話限りはちょっと惜しいです。
「西郷どん」はこの子たちが波乱万丈の人生を懸命に生きる明治維新前後の物語です。

スポンサーリンク

西郷どん(西郷隆盛)ってどんな人

ざっくりいうと 体が大きく、いつも元気でお人好し、軍人、政治家としては底知れぬ大物との呼び声高く肝の座った人物。

目ヂカラのある大きな目は「巨目(うどめ)」と呼ばれ、眼光鋭く見据えられると相手は物も言えなくなるほどだったとのこと、
若い頃にはわりと女好きで妻の他に愛人を囲うなどもしましたが、女性には声を荒げることもない優しい男だったようです。
ポッチャリ系が好みでしたが晩年は禁欲に徹したそうです。

誰からも好かれるいい人 なイメージが多いかもしれない西郷隆盛ですが
軍人、政治家としては、時に独断で冷酷な一面も持っていたと言われます。

西郷隆盛は1828年1月生まれ。
11歳の時に上級生から誤って受けた刀傷で右腕を負傷し武術を諦めるという辛い経験をします。
24歳の時に祖父、父、母を続けて亡くし、家督を継ぐも貧窮に喘ぎますが、尊敬する島津斉彬に仕えて江戸に赴き、明治維新に向けて重要な人物となってゆきます。

島津斉彬亡きあと2度の自殺未遂をし、2度の島流しの憂き目に遭い、それでもその人望と優れた政治力で明治維新を遂行しておきながら最後は西南戦争で政府軍に追い詰められ、流れ弾に腰を撃たれ自決します。

西郷隆盛は3度の結婚をし、2度めの妻との間に2人、3度めの妻との間に3人の子を授かっています。

先見の明に長け、波乱万丈の人生を生き、49歳の若さで散った日本の最後の武士。
明治維新に貢献し、新しい時代に向かうために「武家」の最期を始末した人だったのだと思います。

西郷どんの詳しいプロフィールはおなじみ Wikipedia であしからず!

「郷中教育(ごじゅう教育)」に学ぶ少年期に島津斉彬と出会う

「郷中教育」は、薩摩藩武士階級の家の「青少年教育の規範」とされていたものです。
特定の教師や施設はなく、基本、何を学ぶかは子供たち自身が決め、グループでよく話し合いながら実践して訓練する教育です。

郷中は、地域の青少年を年齢によってグループ分けし、年上の者が年下の者の面倒を見ます。
早朝から行動をともにし、武術、学問を学びます。

郷中教育の根幹は、
武道第一、何事もグループで良く話し合って処理すること、嘘を言うな、無作法をするな、体を鍛えよ、質実剛健、忠孝に背くな、弱い者いじめをするな、男女交際禁止
などであり、教科書からでなく日々実践することで身に付けるシステムでした。

こうした少年期に出会った島津斉彬は、西郷隆盛の人生を変えた超重要人物です。

「西郷どん」第1話はむしろ島津斉彬が主役、この後大きく動く時代のキーパーソンとなる二人の出会いが必見ポイントでした。

とはいえ、二人の関わりがここからいきなり始まるわけではありません。

どこにでもいる郷中の少年である西郷隆盛、たまたま江戸から琉球へ行く途中に実家に寄った島津斉彬。
出会ったからといってすぐさま関係が深まるわけもありません。

次回以降、下級武士の家に生まれた西郷隆盛がいかにして島津斉彬の家臣となり、日本の歴史の大舞台に立つのか、
島津斉彬はなぜ西郷隆盛を家臣とし、引き立てたのか。

果たして本人たちは明治維新という巨大な歴史のうねりの中で重要な役割を担うことになると予感していたのでしょうか。

幕末から明治維新まで、西郷どんはどんな人生を生きるのか

薩摩藩の下級武士の家に生まれた西郷隆盛。
幼名は小吉(こきち)。

父は御勘定方小頭(おかんじょうがたこがしら)の西郷九郎隆盛(のち吉兵衛隆盛に改名、禄47石余)、
西郷家の家格は御小姓与(おこしょうぐみ)であり、下から2番目という身分の低い下級藩士の長男です。

小吉には弟3人、妹3人がいました。
家族は祖父母と両親と子供たちの11人!(この頃にはまぁ普通です)

生活はかなり苦しかったようです。
食べるのがやっとで、雨が降れば雨漏りがひどく、一つの布団に兄弟全部が足を突っ込んで寝るような暮らしぶりだったとか。

といっても西郷の家が下級武士だから特に貧しかったというのでもなく、
この頃の「武家」なんてみんな貧しかったのです。

徳川家康が天下を取って始まった江戸時代、なんたって戦(いくさ)のない平和な時代です。
特に5代将軍綱吉の「生類哀れみの令」によって、ますます刀を使う機会は減りました。

小さな小競り合いはあったかも知れないけど「戦」はないんですから。
250年以上もの間、戦争も内乱もないなんて、諸外国から見れば驚異的だというので「パクス・トクガワーナ」(徳川の平和・パクスはラテン語)と言われるくらいです。

今は、それはとても良いことだと感じますが、当時の武士にしてみれば手柄の立てようもない、武士が武士としての生き方も出来ない辛い時代だったことでしょう。

戦がなければ「手柄」もないし「軍需景気」もないわけで、禄高が上がるわけもなく、そもそも一般階級の武士に仕事らしい仕事はなかったでしょう。

贅沢な暮らしが出来る「旗本」なんてほんのひと握りです。
みな、内職や百姓や大工仕事をしてなんとか暮らしていたのです。

なんとか暮らしていたどころでなく、息も絶え絶え生きていた、というほどに苦しい生活だったかもしれません。

武士の禄高(=石高)、つまりお給料はお米ですが、鹿児島の半分は水を溜めることの出来ないシラス台地で、土地は広くても稲作には向かない土地が多いのです。

加えて台風や火山の噴火などの被害を受けやすい土地柄です。

琉球からもたらされたサツマイモ(唐芋)が特産物になったのも、薩摩藩でしか採れない黒糖を専売制にしたのも財政の苦しさゆえに領内でできるものに力を入れた証拠でしょう。

士族の生活が苦しかったのは薩摩藩に限らず、日本の武士はみな同様に苦しかったのです。
各地の特産品、名産品が発達したのは下級武士たちが家族総出で生きるために働いたからです。

その士族の苦しさ、不満が倒幕へ向かわせ、明治維新の一因になったと言われるくらいです。

そんな状況でも武士の子なら当然のことであった郷中教育。
藩主・島津家の采配と騒動。

ペリーの黒船よりも早くイギリスやフランスの軍艦が琉球に来航し通商を求めます。
(琉球は薩摩藩が管理していました。)

そして運命的な島津斉彬との出会い。

時代は容赦なく倒幕へと向かい、維新の波がひたひたと迫り来る中、小吉はどんな青年時代を送るのでしょう。

当ブログ、「ご先祖さまさま!」を運営するワタクシひばりとしては、西郷どんの波乱に満ちた人生とともにこの動乱の時代の人々の暮らし、思想にも注目したいと思います。

農業を愛し、農業こそが国の土台だと確信していた西郷隆盛の言葉。

「農業だけは誰にも不幸にせん。農業こそは、魂の産業じゃ。」

晩年、鹿児島に帰って農業をしたいと言った西郷隆盛。
大河ドラマ「西郷どん」は、そんな西郷隆盛をどう描くのでしょう、楽しみですね!

【西郷どん】次の記事
【明治維新】の記事

スポンサーリンク