1853年7月8日、ペリー率いる黒く巨大な船が4隻、浦賀沖に着いたのは午後5時ごろ。
旗艦「サスケハナ号」(全長78メートル、2450トン)と、「ミシシッピー号」は蒸気船、帆船が2隻。
その頃の日本の船は、大きいものでも100トン程度、江戸っ子たちはびっくり仰天!
幕末の日本は諸々の問題はあれど、まぁ平和を保っていました。
しかし幕府の上層部、知識人はひたひたと迫り来る世界の脅威をリアルに感じ取っていました。
「来るべき時が来た」。 黒船の来航はわかっていたのです。
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日本は鎖国によって孤立してなどいませんでした!
江戸時代の鎖国は、完全な鎖国でなく「対外貿易規制」と言えるもので
ヨーロッパの状況もある程度把握していたし、幕府や知識人はちゃんと海外の情報を得てました。
だからこそ、無警戒に何でも受け入れることのないように「幕府が貿易を規制」したのが日本の「鎖国」です。
貿易を規制する目的の1つはキリスト教の禁圧。
1549年、フランシスコ・ザビエルが来日し布教活動を始めてからキリスト教徒は増え続けていたので
国民の国への忠誠心が失くなるのではないか、欧米列強による日本侵略につながるのではないかと懸念したのです。
また、対外貿易の窓口を幕府が独占すれば、他の大名が貿易によって富強化するのを阻止できるということもあったようです。
1641年、
海外貿易の相手国はオランダと中国のみ、入港出来るのは長崎の出島だけ、日本人の海外渡航と帰国も禁止、として「鎖国」を完成します。
しかし実際には貿易の窓口は4つです。
薩摩藩の管理下にあった琉球王国(今の沖縄、当時は独立した王国だった)、対馬藩は朝鮮、松前藩はアイヌ民族との交易が特例として認められていました。
長崎、薩摩、対馬、松前の4箇所が江戸時代の貿易の「4つの窓口」または「4つの口」「四口」(よつのくち)といわれるものです。
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日本をとりまく海外の状況
1400年頃〜1600年代まで続く「大航海時代」は、スペイン、ポルトガルが世界を二分しました。
大航海時代といえば聞こえは良いけど、香辛料と金銀を求めアメリカ、アフリカ、アジア大陸を次々と侵略していったのです。
金銀は言うまでもなく、なぜ香辛料かといえばこの頃はまだ食品の保存技術がなく、香辛料はことのほか欠かせない重要なものだったのです。
香辛料貿易の中心はオスマン帝国(1299年〜1922年)がイタリアー中東ーアフリカの東方貿易を牛耳っていますので、大西洋側のスペイン、ポルトガルが大西洋航路の開拓を始めました。
これによって地球が丸いことが解ったりしましたが、「大航海時代」は超大量殺戮と略奪と破壊の時代です。
アジアではオスマン帝国が地中海周辺まで勢力を広げた他、インドではムガル帝国(1526年〜1858年)、イランではサファビー朝(1501年〜1736年)、イスラム教とヒンズー教の世界が広がりました。
中国では明帝国が栄えますが17世紀には清帝国に代わります。
「大航海時代」の始まりは「白人の有色人種支配」の始まり、アフリカ・アジアの悲劇の始まりでした。
世界各地で身の毛もよだつような残酷で悲惨な出来事が、日本人にはとても想像も出来ないようなことがものすごくたくさん限りなく行われました。
白人は肌の色によって人間をランク付けしました。
色が濃いほど低い。
黒い人が底辺、その次が赤い人(インディアン)、その上に黄色い人(アジア人)、頂点に白い人です。
白人と有色人種が結婚するのは犯罪である、人類としての進化に逆行する、とまでされていたようです。
だから有色人種の国など問題外。
そもそも「国」とか「領土」の概念もなく、自由に殺して良い、暴行して良いという法律さえあったのです。
「使えない有色人種」は皆殺し、
「ちょっと使える有色人種」は奴隷、
「もうちょっと使える有色人種」は支配下に置いて金儲けに使う、
こんな時代が何百年も続くのです。
吐き気がするほどイヤな話です。
だいたい現代に至っても、世界最古の文明とされていたエジプト文明の黒人説を、黒人だと都合が悪いので否定しているとかバカバカしすぎます。
エジプト文明よりさらに古いメソポタミア文明は黒人と白人が共存していたと推測されていますし
そもそも「白人」(欧州人)の肌の色は最初は黒かったと推測されていて、完全に「白」が定着したのは最近の事だという説が有力だそうです。
猿から進化した人間が最初から真っ白だったらそれこそ不自然じゃないですか?
あ! いえ、肌の色の議論をしたいのではなく。
実際、欲しいものは戦争で相手を倒して奪う、というのは白人どうしでも行われましたし、まさに弱肉強食の時代ですが、白くなければ人間じゃないという白人の思想(神経?)が「大航海時代」のこの頃に決定的になり世界中に広がったのだろうと思います。
さて、話を戻して。
1600年代、スペイン、ポルトガルが衰退するとヨーロッパの貿易の中心はスペインから独立したオランダに移り、その後徐々にイギリスとフランスが勢力を増します。
お隣の中国は、国号を「清」と定めた王朝で、1616年〜1912年まで中国とモンゴルを支配しました。
清朝は、 康煕 帝、 雍正 帝、乾隆帝の3帝時代(1661年〜1795年)が最盛期でしたがその後イギリスにアヘン戦争(1840年〜1842年)を仕掛けられ、衰退の途をたどります。
それまで清国は豊かで平和な国だったそうです。
イギリスに膨大な量のアヘンを持ち込まれ、やめてくれと言えば最新兵器で容赦なく攻撃され、壊滅状態の清国はあり得ないほど不平等な南京条約を締結させられ、イギリスに香港を割譲、上海・広東・アモイ・福州・寧波を開港しました。
イギリスにとっては支配下に置いて金儲けに使う種類の有色人種の国、だったのでしょうね。
イギリスとフランスの植民地だったアメリカはヨーロッパ諸国の協力を得て、1783年パリ条約締結とともに「アメリカ合衆国」として正式に独立しました。
しかしヨーロッパもアメリカも白人の(が支配する)国ですから、不平等条約どころかアメリカに優位な独立だったようです。
その後の産業革命、ゴールドラッシュを経て力をつけたアメリカは、1840年代になると『マニフェスト・デスティニー』(明白な天命)というスローガンのもと、領土拡大を加速させるのです。
それは紛れもなく白人の人種的・文化的優越感に基づく帝国主義的領土ぶん取り政策であり、有色人種弾圧でした。
そしてその魔の手はアジアまで広がって来ていたのです。
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黒船が来た!
幕末の頃、徳川幕府の財政はかなり厳しかったようです。
民間では商人を中心にどんどん新しい経済の仕組みが確立されてゆくのに、幕府や武士は「軍事組織」ですから経済にはまったく疎いわけです。
年貢や武士のお給料は「米」ですが、平和な江戸時代、「米」以外の流通もどんどん増え、ちょっと賢い農家や商人はどんどん裕福になるけれど武士は一部の上級武士以外は貧乏になるばかりです。
士農工商とはいえど、豊かさの順番はまるで逆転していました。
特に下級武士は戦のない泰平の世と引き換えに強いられる生活苦、行き場のない感情が渦巻いていたことでしょう。
政治や制度は戦国時代のままで、経済や暮らしはどんどん変化してゆきます。
幕藩体制の限界が来ていたところです。
こうした背景の中、クリミア戦争などで忙しかったロシア、イギリス、フランスよりひと足先に日本に開国を迫ったのがアメリカ、ペリーの黒船来航です。
とうとう、来たか。
幕府にも朝廷にも、有力藩にも知識人たちにも戦慄が走ります。
お隣の清国はイギリスにボロボロにされ、これでもかというほどに惨敗し無理難題を押し付けられているのを日本の志士たちは知っていました。
長いこと戦をしなかった日本、外交を規制してきた日本。
これまで幕府は、何度となく日本近海に現れた外国の船は大砲を打って追い払ってきましたがそんなことでは対抗できないこともよくわかってきました。
日本人が何より一番恐れたのは、外国が攻めて来て日本も植民地になってしまうことでした。
「公武合体」政策の幕府
かつて戦国時代の日本の戦闘能力は非常に高かったそうです。
豊臣を滅ぼし、徳川の時代になることを決定づけた最後の戦、「大坂の陣」の当時、鉄砲の保有量は世界一だったという説もあります。
保有量だけでなく、海外から入手した武器の使い方、自国での生産など「自分のモノ」にする能力は極めて高く、日本製の鉄砲のほうが欧州製より優れていたのは宣教師も認めるところだったとか。
いかにも日本人らしいですね。
けれど久しく戦をしていません。
今は外国と戦争する準備も何も、ろくな武器さえもないのです。
清国と同じ轍を踏んではいけない。
頑なに攘夷を貫けば欧米列強との戦争になる、勝ち目はない。
幕府は、ただ追い払うだけではダメだ、必要な物資は与えるなどある程度受け入れてゆくのが得策、
「開国」必至な状況だと考えました。
そして、「公武合体」。
朝廷と幕府はよりいっそう一丸となって外敵と対峙しなければいけない。
最重要なのは、軍備を整えることと海外の状況をよく知ること。
いくら泰平の世を300年近く過ごした日本といえど武士の国、日本。
特に徳川は、いらぬ戦、負ける戦をしない方針で天下を取りました。
武力、特に武器に劣る戦はしない、してはいけないとわかっていたのです。
江戸時代を通して内乱の防止と平定を最優先にしていたけれど、こうなったら何がなんでも軍備増強だ!
ということで苦しい財政の総力を上げて幕府おかかえの近代型海軍を整備しながら幕臣の海外派遣にも力を入れました。
幕府にはもちろん「尊皇」も「攘夷」もあったけど、
「尊皇」は、公武合体のための尊皇であり、
「攘夷」は、ただバカみたいに戦うのでなく、敵を知って受け入れる「開国」の攘夷なんですね。
「攘夷」と「佐幕」の朝廷
日本の「王様」は「天皇」です。
今は「象徴」ですが、この頃は政治と密接に関わっていました。
といっても政治を実際に行うのは幕府です。
朝廷は、外国が攻めてくるとなったって、どうしたものかとオロオロするばかり、
とにかく「攘夷」=夷人(いじん)を攘う(はらう)のが先決です。
実際に 夷人を攘う(戦う) のは幕府。
幕府は日本の武士の総大将! つまりプロの戦闘集団なんだから!
昔はすんごい強かったんだから! 今も団結したら強いでしょ、頑張って!!
幕府が海外軍勢を負かせばヤツらだって言うことを聞く、そのためには幕府に絶対の権力を持たせて
外交の窓口を幕府に一本化しよう! そうしよう!
というのが、「佐幕」。
「倒幕」の志士
こうした中、老中首座阿部正弘が開国を朝廷にお伺いを立てたり、
(幕府が決めた鎖国を幕府がやめるといえば良いだけなのになぜ朝廷にお伺いを??)
井伊直弼が独断で、諸外国とちょっと(けっこう)日本に不利な「修好通商条約」を締結したりしたことで朝廷や「攘夷派」の反発を買い、いざこざが起きます。
(これは朝廷のお許し「勅許」が必要なのになんで勝手にやっちゃうわけ??)
井伊直弼は敵対した多くの志士を処罰、吉田松陰も刑死します。(「安政の大獄」)
このことが「桜田門外の変」をまねき、井伊直弼は暗殺されます。
幕府の威厳や信頼も日に日に弱まってゆきます。
ただでさえ徳川政権になって以来しいたげられてきた外様藩や現状を不満に思う志士の徳川に対する恨みは積りに積もっています。
その中で薩摩藩、長州藩が政局の表舞台に躍り出ます。
薩摩は琉球王国を管理下に置き、長崎も近いことから海外の事情にも明るかったでしょう。
長州には、幕府の命により上海に派遣され、イギリスやフランスのなすがままになっている中国を見てきた高杉晋作がいました。
土佐の坂本龍馬も深く関わってきます。
薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長州の木戸孝允は のちに「維新の三傑」と呼ばれます。
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日本を守れ!の心はひとつ。 のはずなんだけど・・・
「佐幕(さばく)(幕府を慕い補佐する)」「尊皇(そんのう)(天皇を敬い尊ぶ)」「攘夷(じょうい)(夷を追い払う)」「開国(かいこく)(鎖国を解き国を開く)」。
どの主張も、様々な思惑も、
その根底にあるのは、「日本は植民地になんかならない!」 という強い意志 だったと思います。
そこは誰にとっても絶対の、一致した強い心だったはずです。
でも、立場、目的、欲 が絡むとそれぞれが違った「野心」を抱くようになるのでしょうね。
しだいに「倒幕」の空気が濃厚になり、とにかく幕府を倒せ! となる。
やがて「幕府」対「薩長」の政権争いになり、「朝廷」を取り合うことにもなってゆくのです。
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