【明治維新】2.ペリー来航、開国から新政府樹立までのあらすじ

維新の志士
維新の志士

ペリーが日本にやってきた目的は開国と通商です。
特にアメリカは太平洋を漁場にした捕鯨が盛んで、捕鯨船への薪水(たきぎと水)・食料の補給、船員たちの救出・保護といった支援を強く求めていました。

ペリーは日本に来航するにあたり、日本に関する書物を読みあさって研究したそうです。
また、浦賀へ到着する前には琉球、小笠原諸島に寄り、産物や地形などを調べました。
世界で「最も若い国」の代表として、「最も古い国」の扉を開こうとしたのです。

1853年7月8日、ペリー率いる計4隻の巨大な船が浦賀沖に着いたのは午後5時ごろ。 蒸気船は旗艦「サスケハナ号」(全長78メートル、245...
ペリーが黒船で浦賀にやって来て開国を迫り、不平等な条約を締結させられた。 井伊直弼が朝廷のお許しを得ないまま調印して300年の鎖国が終わっ...

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「欧米白人列強」のアジア進出、次のターゲットは日本だ!

幕府は黒船が浦賀に来る1年以上も前からペリーの来航を知っていたといいます。

ペリー来航の前の年、1852年夏、オランダ商館長から「米艦隊の来春来航」を知らせる「オランダ別段風説書(べつだんふうせつがき)」を受け取っていたのです。
老中首座の阿部正弘は、これを限られた有力大名には見せましたが、特に有効な対応策を打てなかったのです。

ただ、イギリスと清国のアヘン戦争は知っていたので、頑なに鎖国を守ろうとして戦争になってはいけないことはわかっていました。

幕府の中では、開国やむなし、むしろ自ら進んで開国し、諸外国の侵略という最悪の事態だけは避けねばならない、という考えは当然あっただろうと思います。


開国支持にしても鎖国支持にしても、「日本は植民地になんかならない!」と、いう思いは共通していました。

開国やむなし、にしても国際的な貿易はしたことがありません。
「通商」は時期尚早との考え方のほうが優勢だったようです。

一方ペリーは、通商をしなければ戦争を仕掛けるぞ、と脅かせばいい、通商も言いなりになるだろうと高をくくっていました。

しかし、のちにペリーは、アジアの小国日本は、他に類をみないほどレベルの高い国であったことに驚くのです。
そして、ますます日本が欲しくなったのではないでしょうか。

イギリス、フランス、アメリカ

イギリスはヨーロッパの貿易の中心を担っていたオランダとの戦争に勝利し、オランダに代わって勢力を拡大していたフランスと熾烈な植民地獲得争いをしていました。

その舞台はアメリカ大陸北部とまだ手つかずのアフリカ大陸。

アフリカを凶暴な暴力で押さえつけ、黒人を奴隷として送り込むとアメリカ大陸の開拓をさせ、そこで得た利益を本国へ送る「三角貿易」でやりたい放題の荒稼ぎしていました。

アメリカでは英語、カナダとアフリカでは英語とフランス語が公用語の所が多いのはこうしたわけです。

しかし13の植民地がフランスと同盟を結びイギリスに勝利、1783年に「パリ条約」が結ばれ正式に「アメリカ合衆国」として独立すると、今度は暴力の支配を中東やインドなどアジアに向けて、フランスとの戦争を繰り返します。

こうしたイギリスとフランスの戦争はイギリスが勝利をおさめ、やがてフランスの勢力は衰えてゆきます。

イギリスの強さの背景には、こうして海外で得た莫大な資金を元に産業革命を成し遂げたことにありました。

「欧米白人列強」の武器(蒸気機関車や蒸気船、最新兵器の数々)は弱者からむしり取った資金によって「冨」を築き、開発され進化したのです。

アメリカも、自由と民主主義を掲げて独立はしたけれど、アフリカから連れてこられた奴隷や先住民の権利はほとんど認められず、相変わらず白人の天下は続くのです。

そしてアメリカもまた、自国の領土拡大をし、産業革命ゴールドラッシュでますます勢力を増し、アジアへ進出しようとしていました。

ロシア

ロシアもまた、日本に開国を求めていました。
地球の最北の国ロシアは「凍結しない港」が欲しかったのです。

それまで何回か長崎に来たり、樺太や択捉を襲撃したりしていましたが、その度に日本の「穏便な対応」で事無きを得ていました。

とはいえロシアも日本との通商を求め、特に国境の確定(今の北方領土問題はこの頃からなんですね!)を求めていましたので、色々言ってきます。

日本側の使節も反論しながら、なかなか結論に至らず、長期化しているうちに日本とロシアの間には信頼関係すら生まれたそうです。

ロシアの使節プチャーチンは日本の使節を
「社交的で、俊敏で健全な知性と巧みな弁論術」
と評したとか。

ロシア人も「人情」に厚い民族なのかもしれませんが
「和をもって尊しとなす」精神を持ち前とし、勤勉な日本人は本当に優れていると思います。

そうこうしているうちにロシア本国ではオスマン帝国に宣戦布告し、これにイギリスとフランスが参戦するという大変な事態になってしまいます。

「クリミア戦争」の始まりです。

プチャーチンは日本を離れ、日本との交渉はアメリカに先を越されることになります。

まず、不平等条約で迫る

浦賀沖に到着したペリー率いるアメリカの一行は日本に(不平等な)条約の締結を迫ります。

これは欧米列強のいつもの手段です。

欧米白人列強は、国を統治する者もなく大した軍事を持たない国には一方的に軍隊を駐留させ武力で一気に植民地化します。

そうでなく国を統治するほどの権力者が存在する国にはまず不平等条約を突き付け、従わなければ戦争を仕掛ける、あるいは大規模な内乱を起こさせ自滅したところで征服するのです。

ペリーの戦艦「サスケハナ号」まで防備船で行った浦賀奉行所の役人が、日本の外交窓口である長崎へ行くように伝えると、「無礼は許さん、退去しないと武力に訴える」と脅します。
なおかつ、米大統領の親書は、どうしても江戸で手渡しをするんだと頑張ります。

とにかく戦争を避けたかった幕府は親書を受け取ると返答を先延ばしにし、時間がかかると察したアメリカは「来春、また来る」として一旦引き揚げ、翌年2月、他国に先を越されぬよう早めに来日したのでした。

再来日したペリーは、日本も清国と同じようにイギリスやフランスに侵略される可能性を示し、それを防ぐには日本と友好的なアメリカとの条約締結を急ぐべきで、アヘンの輸入を禁止する条項を入れることだと説得しました。

幕府は清国の二の舞いを恐れ、「日米和親条約」を締結し、さらに4年後には「日米修好通商条約」も締結します。

これらを調印したのが大老・井伊直弼だと習った人が多いと思います。
私も確か、そう習いました。
でも実は少し(かなり)違います。
(詳細は次の記事で)

ペリーと結ぶ「日米和親条約」には「通商」は含まれず、従ってまだ「開国」はしていません。
この時の筆頭は林大学頭復斎、老中首座は阿部正弘でした。

4年後にハリスと結んだ「日米修好通商条約」で初めて「通商」のための条約となり「開国」します。
筆頭全権は林復斎の甥の岩瀬忠震、老中首座は堀田正睦でしたが途中から井伊直弼が大老となり、堀田は事実上失脚、そのあと調印となります。

アメリカと通商条約を結ぶならウチともやってくれ、と
オランダ、ロシア、イギリス、フランスとも同様の条約を結ぶことになります。
これが「安政の5カ国条約」です。

この段階では日本の優れた交渉力でさほど不平等な条約とは成りませんでした。
日本の閣僚は本当に優秀です。

しかし「日米修好通商条約」は孝明天皇の「勅許」を待たずに調印したため、朝廷から厳しく非難されました。

朝廷をないがしろにして勝手なことを! というわけで「公武合体」どころではありません。
これに加えて「攘夷」を掲げる諸大名とも激しく対立します。

井伊直弼は抗議行動を起こした志士たちを強硬に「処罰」、吉田松陰も死罪になりました。
「安政の大獄」と呼ばれる大弾圧です。

この大弾圧には当然反発も大きく、
井伊直弼は暗殺され(「桜田門外の変」)、幕府の統治力は衰え、朝廷の権力が強くなり「勅令」が絶対的な力を持つようになります。

この後さらに「下関戦争」「薩英戦争」が起こり、アメリカ、イギリス、フランス、オランダから責任と賠償を追求され、条約改定を迫られ、結果的に不平等な条約となってしまいました。

まぁとにかくこうして260年以上続いた「鎖国」が終わり、開国となりました。

今まで(表面上は)平和だった日の本の国は

  • 朝廷と幕府の軋轢
  • 幕府の衰退
  • 武家・武士の不満、不安
  • 欧米列強の脅威
  • 新しい社会の仕組み、産業、工業、技術開発の必要性

などなどの大きな問題をいくつも抱え、同時に噴出する動乱の時代に移ってゆくのです。

「開国」させた日本をどう料理するか。 欧米列強の常套作戦。

にわかに乱れる日本国内の情勢。

日米修好通商条約の締結とそれにまつわる事件の数々は、「尊皇」と「攘夷」を一体化させ、徐々に「倒幕」へと向かわせることになってゆくのです。

イギリス、フランスとアメリカの思惑がうごめきます。

百戦錬磨の「征服と植民地化のプロ」は、自ら相手と戦うのでなく、内乱を起こさせ互いに殺し合い弱体化させるのが一番だと知っていました。

ジョン万次郎、坂本龍馬、木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通、高杉晋作
などは誰もがよく知る維新の英雄です。

彼らを利用して日本を2つに分けた内乱へと導き、その援助をするのがイギリスの国際金融資本ジャーディン・マセソンであり、その”日本長崎支店”であるグラバー商会です。

特に武士の数が多く財政再建に成功した長州藩、薩摩藩は欧米には都合よく戦争の原動力となってくれそうだと見込んだのでしょうか。

長州は「攘夷」から「開国」へ、薩摩は「佐幕」から「倒幕」へと方針を変え、犬猿の仲だった二藩が「薩長同盟」を結ぶことになった時、ここでもグラバー商会は大きな役割を果たします。

薩摩が、グラバーと密接につながっていた坂本龍馬を長州に紹介したのです。

これで薩長の武器はグラバー商会にお任せ! です。

折しも南北戦争の終結したアメリカから、グラバーは南北戦争で使用した武器を安く買い入れ、高値で売りさばきます。

薩長だけでなく、幕府にも、欲しいという人には誰にだって売るのです。

フランスはフランスで、幕府に「フランス軍事顧問団」を送り込み、洋式軍隊の育成を支援したほか、幕府はフランスの技師を招き横須賀造船所(現・在日米軍横須賀海軍施設)を建設したりしました。

アメリカは首尾よく開国に導き、イギリスは薩長を支援、フランスは幕府に付き、武器をじゃんじゃん調達してやって荒稼ぎ、戦争は高みの見物です。

明治維新とは、国内の必然で起こった改革には違いないけれど、「血をみる改革」にしたのは欲しいものは手段を選ばず手に入れる白人の策略だったと思わざるを得ません。

新政府樹立

薩長 VS 徳川幕府。

幕府の衰退と共に上昇したのは「日本の王様」、天皇の権威です。

要(かなめ)となるのは天皇。

天皇は「玉」、「ぎょく」であり、「タマ」です。

「玉」を手にしたほうが「官軍」(正義)、手に出来なければ「賊軍」(悪)です。

1868年、もはや徳川幕府はこれまで、と判断した徳川慶喜は「大政奉還」をし、政権を朝廷に返上します。
これで薩長の掲げる「倒幕」の大義名分はなくなります。

徳川最後の将軍、慶喜は世界の情勢、国内の動乱をよく理解していました。

日本をとりまく欧米の脅威を考えれば、国内で戦争をしている場合ではない、一丸となって独立国日本を守らねばならないと思っていました。

内戦を避けるためには「倒幕」の大義をなくさねば。
政権を返上したところで朝廷に政治はできない、結局自分が中心となって世界に対応できる強い国を作りたい。
そう考えたのです。

ところが同じ頃、朝廷から「倒幕の勅書」出されていました。
公家の岩倉具視が仕組んだ「偽勅」です。

岩倉具視は「王政復古の大号令」を発令させますが王政復古と言いながら天皇には実権を渡さず、事実上は薩長と岩倉一派からなる新政府樹立宣言でした。

徳川慶喜は正攻法で反撃、
英・仏・米・蘭・独・伊の六ヶ国の行使らと引見し「国際社会から認められた正統政権」として政権挽回を果たしたかのように見えましたが、「新政府」は強引に事を進めます。

岩倉が仕組んだ「偽勅」で朝廷は混乱状態。
「新政府樹立」の既成事実は出来たけど、結局政権は誰が握るのか。

慶喜の大政奉還に感心した坂本龍馬はちょっと慶喜を見直し、慶喜のポストも考慮した「新政府綱領案」などをまとめたりして協力体制に転じましたが、なんと直後の近江屋事件で暗殺されてしまいます。

倒幕の大義を失った西郷隆盛はどうしたか。
倒幕を徹底しなければ未来に禍根を残すと考えていたので、このまま済ますわけにはゆきません。

江戸で薩摩藩を暴れさせ(無差別テロ!)幕府を挑発、
我慢を重ねた慶喜もさすがに耐えかね、「鳥羽伏見の戦い」勃発となってしまいます。

失墜した幕府とはいえ、仮にも将軍家徳川の兵力は諸藩のそれとは格段の差を誇り、幕府軍がぜん有利の戦局。

ところがなんと新政府軍陣営に「錦の御旗」(またしても岩倉具視が1枚噛んでいます)が翻ります。

「玉」を手にしたのは薩長でした。

形勢は一気に逆転、薩長を主流とする新政府軍は「官軍」、旧幕府軍は「賊軍」となりました。

徳川慶喜は「錦の御旗」を見て愕然。
今度は自分が「朝敵」となることを恐れて江戸に逃げ帰ってしまいました。
これで「国際社会から認められた正統政権」の地位も失います。

薩長は政権を手にし、1868年1月、正式に「新政府」が立ち上がります。
明治元年。 明治時代の幕開けです。

新政府は「太政官(だじょうかん)」と名付けた中央政府に国家権力を集中、それを立法・行政・
司法の三権に分けました。

スターティングメンバーは
三条実美、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、広沢 真臣 、後藤象二郎、由利 公正 、横井小楠、大村 益次郎、伊藤博文、井上 馨 、板垣退助、大隈重信 などなど、長州・薩摩・土佐藩が中心です。

ただしこの後、人事はめまぐるしく変わりました。

ここまでで「動乱」「内戦」が収束の方向に行けば良かったのです。

政権を奪い合う戦争、「賊軍」だったはずの長州が薩摩と組み勝って「官軍」になった。
徳川の時代が終わり、「明治」になった。

まぁ時代の流れ、近代化への痛みだと、それくらいで済んだかもしれません。

でもこれだけでは済みませんでした。

「明治維新」と名付けられたクーデターに次ぐクーデターのクライマックスはまだこれからだったのです。

なぜか。
薩長の、たかだか下級武士が起こしたクーデターに反発する者は多かったし、完敗した幕府軍の残党が黙っているはずもなく、誰もが「変化」を望むわけはないからです。
そしてイギリスもアメリカもフランスも、これで終わっちゃ困るからです。

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