日米和親条約と日米修好通商条約、なぜ不平等条約?-明治維新3-

タウンゼント ハリス
タウンゼント ハリス

ペリーが黒船で浦賀にやって来て開国を迫り、不平等な条約を締結させられた。
井伊直弼が朝廷のお許しを得ないまま調印して300年の鎖国が終わった。
と、思っている人、多いですよね。

事実はそうではありません。
朝廷の勅許を待たず、は正解だけど、井伊は調印していません。
不平等条約になったのも、ちゃんと理由(原因)がありました。

ペリーが来航した目的は開国と通商です。 幕府は黒船が浦賀に来る1年以上も前からペリーの来航を知っていたといいます。 ペリーは日本に来...
幕府の命を受けた勝海舟・ジョン万次郎・福沢諭吉は海外留学・海外派遣です。 長州五傑(長州ファイブ)・五代友厚・新島襄は命がけの密航です。 ...

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ペリーは威嚇するも幕府はその手には乗らなかった

ペリーが浦賀にやって来るずっと前から、幕府はかなり海外の情報を入手していました。
文献の入手、翻訳なども実に数多くありました。
幕府の情報収集能力は相当高かったようです。

足摺岬の沖合で遭難していたところをアメリカの船に助けられた漁師の息子ジョン万次郎。
アメリカで学び産業革命やゴールドラッシュなども体験してペリーが来る3年前に帰国、
薩摩藩や地元土佐藩を通じて幕府に協力していました。

黒船がどんな船なのかジョン万次郎からも聞いていたし、
ペリーの来航も、オランダ商館長からの知らせ(「オランダ別段風説書(べつだんふうせつがき)」)で知っていました。

幕府は日本が欧米の理不尽な侵略を受けないためにはどうしたら良いかを考えていました。

アヘン戦争で清国が惨敗したことに学び、すでに「異国船打払令」を「薪水給与令」に改めてもいました。

外国船を大砲を打ちまくって何がなんでも追い返すのではむしろキケン、日本近海で困ったことになった外国の船は助けるし、燃料、食糧も供給しますよ、ってことにしていたのです。

1853年7月、ペリーが4隻の戦艦を率いて来航し、日本を無理やり開国させたイメージがありますが、そうではありません。

ペリーの要求は3つ、

  1. 漂流民の保護
  2. 外国船への燃料や食糧の補給
  3. 交易の開始

でしたが、そんなわけで 1.と2.はとっくに対応済み、問題は3.の交易です。
これには十人十色の意見があって幕府の中でも喧々諤々、国論がまとまりません。

ペリーは、即答しない日本に対し来年また来ると言って一旦引き上げました。

幕府は、清国は交易を受け入れてイギリスにやられたことを思えば、やはり交易はダメだろうという空気でした。

翌1854年2月、今度は巨大な船を9隻に増やしてドヤ顔で来航、回答を迫りました。

交渉担当は大学頭の林復斎さん。昌平坂学問所の塾頭であり、儒学者、朱子学者でもあります。

いきなり高圧的に脅しから入るペリーに対して終始冷静に理路整然と対応し、受け入れるべきは受け入れしかし誠意を持ってムリな要求はしっかり拒否、しました。

1.2は、人命第一とおっしゃるペリーさんはごもっとも、我が国も同感なので、とっくに実現しています。
が、3の貿易は人命とは関係ないし、我が国の法律は外国との貿易を固く禁じているのでお断りします。

しかし、1.2のことからも長崎だけでは不便というのも解るので、下田と函館に寄港出来るようにしましょう。

かくして「日米和親条約」の締結と相成りました。

仲良くしようね、の約束はしましたが「通商」はしない、素晴らしい「和親条約」です。

祝砲だといってどんどん打ち上げる大袍にも内心ビビリながら(と思います^^)動じず、礼を尽くして正々堂々と対応する林さん、海外情勢をほぼ正確に把握して交渉にあたる幕府。

日本人の礼儀正しさ、思慮深さ、文化・教養の高さにいたく感心したようです。
また、半年間の日本滞在で庶民の姿や町々を見て、日本国民のレベルの高さにも驚きました。

ペリーはすっかり毒気を抜かれて納得しちゃうのですね。

「いや、会えて良かった、もしも日本と外国が戦争になった時にはアメリカが加勢しますよ」
とまで言ったのです。

帰国後の手記でも、
「日本がひとたび文明世界の技能を手に入れれば協力なライバルになるだろう」
と記しているそうです。

この成果には 外国ダメ、絶対!の孝明天皇もとても喜んだそうです。

結局、この段階では日本は「開国」には至っていないのです。

ハリスが来た! いよいよ避けられぬ「通商」で「開国」

そうこうしているうちに、幕府の中でも開国と貿易を考える人が増えてきました。

清国はアヘン戦争後のアロー戦争でさらに壊滅状態で西洋の近代的な武器の脅威は伝わっていたし、ペリーの打った”祝砲”や戦艦だけでもスゴイものでした。

ロシア、イギリス、フランスなど欧米の脅威が迫る中、鎖国をやめざるを得ないのならば近代的な武器が欲しい、でも武器を買うにはお金が要る。

幕末の日本はないものだらけです。
資源もない、お金もない、軍事力もない。

けれどそうも言っていられなくなる日が近いことは明白でした。

日本も海外貿易で資金を手に入れ、軍備を整える必要があるのではないか。

日米和親条約から4年後の1856年8月、今度は明らかに「通商」目的でアメリカからハリスがやって来ます。
これは予想外で、幕府はペリーが来た時より驚き慌てたといいます。

ペリーでは開国できなかった日本、ハリスは貿易のプロであり、植民地支配も百戦錬磨。

ハリスは言います。

「アメリカと平和的に通商の条約を結ぶか、イギリスの不当な暴力に屈するか、今や、日本がどのように開国するのか、だ。」

さあどうする、日本?

外国文明を吸収し貿易で稼ぎ富国強兵を図り西洋に対抗する、という「開明派」が増えたとはいえ、まだまだ圧倒的に多いのは「攘夷派」です。

別に外国と付き合わなくても良いし、ヘタに無理難題を押し付けられて侵略されるのはまっぴらごめんなのです。

しかしそこは勢力と権力の差があり、交渉役は若くして出世街道まっしぐらの高級官僚岩瀬忠震(いわせただなり、林復斎の甥)と名奉行でスペシャル事務方井上清直(いのうえ きよなお)になりました。

二人はバリバリ開明派。
「貿易開始と富国強兵」を強く推していました。

岩瀬は「下田を閉鎖し横浜を開港」を提案します。
当時、日本の経済の中心は大阪でしたが、貿易は利益を幕府に集中するために江戸幕府に近い横浜にすることが肝要でした。
そうでなくても幕府は貧乏のどん底、貿易で財政再建が計れると見込み、そのためには横浜がベストなのです。

横浜を”出島”にして外国人を囲うことで必要以上に外国勢が日本各地を動きまわらないようにする狙いもありました。

圧倒的に攘夷の日本で外国人が自由に動き回ればもめ事しか起こらないからです。

あくまでも外国人は幕府の目の届く範囲内だけで行動してね、ということです。

横浜居留地はそうした経緯で出来た街だったんですね。

ハリスは不満です。
横浜も良いけど、なんたって経済の中心大阪が一番良いに決まってます。
大阪、京都、他の大都市も開港してほしいのです。

大阪は幕府の目が届かないし利益を幕府から遠ざける、朝廷のある京都にも近い。

神国日本の朝廷のある京都を外国人がうろちょろするなんて!
朝廷が許さないだけでなく、街中で目に入った外国人は即、斬られるぞ!

それは絶対ムリ、大阪、京都に外国人を入れることだけは絶対できない。

岩瀬は叔父・林復斎ゆずり?の冷静沈着さと、場合によっては鬼気迫る交渉で断固拒否し、ハリスの負け。

果たして条約の内容は日本としても充分了解の出来るものになりました。

  1. アメリカ人が日本国内を自由に歩き回ることを禁止。
  2. 当初11港だった開港予定地を4港に抑えた。
  3. 輸出入品に関する価格決定権を得ることができた。
  4. 関税は20%。

さほど不平等ではありません。

(後々、不平等条約と呼ばれるのはこの後のすったもんだの出来事のせいでこの内容が変わるのです。
この時はまだ それなりに平等な条約。)

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孝明天皇、まさかの「勅許」拒否!

さて、「日米修好通商条約」の書面も出来、あとは調印するだけとなりましたが大きな問題が残っています。

幕府はなんとか条約締結の方向にまとめたものの、相変わらず攘夷の勢力も強く、抵抗が大きかったかったのです。
幕府がこれを強硬に進めれば、反対勢力がなにをするかわかりません。

困った岩瀬忠震は、老中首座・堀田正睦に 朝廷のお許しをもらおう、と提案します。

孝明天皇が YES! と言えば、皆を黙らせることが出来ます。
日本の頂点にある朝廷の権威を借りよう、というわけで、岩瀬と堀田が上洛しました。

ところが孝明天皇は断固として勅許を出しませんでした。

朝廷、公家の中にも開明派がいないことはありませんでしたが、やはり圧倒的に攘夷派が多いのです。
特に孝明天皇は徹底した攘夷でした。

孝明天皇が勅許を拒むのは単なる異国嫌いなだけではなかったようです。

  • 日本に夷狄(いてき・外国人)を入れることは神国日本を穢すことではないか?
  • 先祖の道に反することではないか?

自分の代でそれをしては末代までの恥になろうと考えたようです。

そしてそもそも政治のことは幕府に任せてあるのに、意見がまとまらないからと言って朝廷の権威を笠に着ようとは何事か、まずは幕府の意見をまとめてから来い。

ということで撃沈。
二人は、さてこのあとはどうしたものかと困り果てて江戸へ帰るのでした。

今では東京ー京都なんてあっという間ですが、この頃は何週間もかけてやっと到着して、
また何週間もかけて戻るのです。
手柄を立てたのならまだしも、失意の帰り道は果てしなく遠かったでしょうね・・・。

江戸では将軍家定が病に倒れ、跡継ぎ問題一橋派南紀派の熾烈な戦いが起こっていました。

勅許拒否に遭った状況を打開するためにも、一橋慶喜(徳川慶喜)が将軍になれば一橋びいきの朝廷も態度を軟化するのではないかと思ったりした帰り道でした。

大老 井伊直弼 登場!

ところがなんと、その長い留守中に、南紀派の彦根藩主、井伊直弼が大老に就任していました。

「大老」は「老中首座」より偉いのです。
通常はこの役職を置かないことのほうが多いのですが、なにかあると、たまに置かれるのです。

これにて 堀田正睦 撃沈。失脚。

大老・井伊直弼は開明派ですが、「勅許がいただけるまで条約調印はならん!」との方針。

あくまでも「勅許優先」でした。

でもハリスからはやいやい催促されるし攘夷派との対立は激しくなるし。

その上なんと!
アロー戦争に勝利したイギリスが数日のうちに日本にやってくるという情報まで飛び込んできます。

もはや一刻の猶予もない!!

イギリス、フランスの武力に屈し、理不尽な要求をのまされることになれば今日までの努力が、
アメリカとの条約が、すべて水の泡です。

岩瀬はあせります。
そして、ハリスに願い出ます。

「条約に調印すれば、イギリスが攻めてきた時に必ずアメリカが間に入ると一筆書いてくれ!」

ハリスは承諾して書面にサインしました。

そしてもうひとつ、岩瀬は井伊直弼に、
勅許を待ちたいが、どうにも致し方ない時は条約に調印して良いか?」と伺います。

井伊直弼は、
「なるたけ勅許を待つように。それでもやむを得ない場合は仕方がない」と答えます。

岩瀬はこれを井伊直弼の言質を取り付けたと解釈します。

勅許なしで調印 が混乱を生み、不平等条約にした

1858年(安政5年)6月19日、岩瀬は「日米修好通商条約」に調印し、
続いてオランダ、ロシア、イギリス、フランスとの通商条約条約(「安政の5カ国条約」)を結びます。

ここから日本の近代化が始まるはず・・・でした。

ここで「勅許」について忘れてはいけないポイントがあります。

そもそも政治は朝廷から承認された将軍以下幕府が行うものであり、鎖国は徳川幕府が「これから鎖国するよ」と言って始めたものです。

ですから、朝廷は関係なく、本来は幕府が「鎖国はもうやめるよ」と言えばそれで済む問題のはずなのです。

なのですが。

徳川も260年を超え世相も暮らしも経済も変わりました。

かつては大金持ちだった徳川家も、武家らしいといえばいえるけど経済観念は低く、財テクもせず旧来の通り武家らしく政治をしてきたので、財産を使い果たしていました。

そこへ欧米列強が迫り来る時代となり、幕府の威厳が後退するのに反比例して朝廷の権威は上昇してきていたし、有力大名の尊皇、攘夷、開明、開国の思想・活動も活発になっていたのですね。

幕府が幕府の意見をまとめられず、朝廷の最高権力を利用しようとしたのは致し方のないことでした。

安政の大獄と桜田門外の変

勅許を待たずに条約に調印したことが引き金となり、各地でさまざまな事件が起こります。

尊皇派、攘夷派はますます過激になり、朝廷はてんやわんや、孝明天皇は激しく怒ります。

尊皇派のメッカで徳川御三家のひとつ、水戸藩主の徳川斉昭は「水戸学」の立場からも強硬な攘夷派、将軍の跡継ぎも息子の一橋慶喜を推していたのに南紀派の徳川慶福になり地団駄を踏んでいましたから、さっそく江戸城に登城し井伊を責め立てました。

が、逆に「無断登城」(登城して良い人、良い日は決められているのに違反した)で井伊に謹慎処分にされます。

孝明天皇の怒りは収まらず「天皇をやめる!」と言い出すし、
その怒りを幕府に直接向ければ良いものを、いくら徳川御三家とは言え水戸藩に
「幕府がなにやら乱れているようだけど、キミたち幕府のお目付け役なんだから治乱のないようにしてほしいものです、よろしくね。」
と手紙を出しました。(「戊午の密勅」

これには井伊が怒った!

天皇が幕府の頭の上を素通りして勅書を他藩に下すなどもってのほか!ルール違反だ!!
(ルール:禁中並公家諸法度、武家諸法度など。朝廷との連絡の窓口は幕府に限っていた)

井伊は本当に怒ったし、反省もしたし深く悩んだようです。

勅許を得ずに条約に調印した責任は幕府にあること、それを止められなかったこと。

開国論を主張する井伊、強硬な攘夷論で将軍の跡継ぎ問題でも対立する徳川斉昭。
その斉昭の元へ天皇からの勅書が下賜された。

攘夷派が勢いを増し、幕府の威信は失墜、社会秩序は崩壊する。

今更ながらに孝明天皇の言った「まずは幕府の意見をまとめてから来い。」が蘇り、諸大名を集め、もっと意見をまとめるべきだった・・・。

それにしても・・・。

井伊直弼は、地元の彦根藩主としては民をとても大事にした心優しい良いお殿様だったそうです。
真面目で一生懸命の井伊だからこそ、この混乱を鎮め、幕府を守らねばならないと思いつめたのかも知れません。

戊午の密勅は、天皇の意志でなく水戸藩の策略に違いないと思い、朝廷の政治関与と水戸藩の工作、斉昭が関与した証拠を掴もうと片っ端から捕縛、尋問、拷問、処分をしました。

徳川斉昭は永蟄居。

その範囲は尊王攘夷派にとどまらず、条約調印した岩瀬忠震や、老中暗殺計画を自白した吉田松陰にも及び、幕閣内でも井伊の方針に反対した者はクビにしました。

結局100名以上が処罰されたといいます。
これが「安政の大獄」です。

これによって井伊直弼は孤立し、幕府を守ろうとしたけれど逆に幕府を追い詰めることになってしまうのです・・・。

井伊の人柄に似合わぬ反抗者への徹底した弾圧は、幕府に疑問を持つ人々、特に水戸藩士の強い反発を買い、ついには白昼、江戸城下で暗殺されてしまいます。

「桜田門外の変」です。

暗殺を決行したのは水戸藩士17名と薩摩藩士1名、脱藩しての犯行です。
1860年3月24日(旧暦3月3日)、雪の降る日で、この天候が犯行に有利に作用しました。

たった18人で総勢60人の行列を襲い、わずか十数分の出来事だったそうです。

元々はこの1週間前に予定した「暗殺決行の日」が延期になってこの雪の日になったとのこと。
井伊直弼の運命でしょうか。

混乱。 長州、薩摩が外国と戦争

幕府の新たなリーダーは桜田門外の変の直前に老中となった安藤信正。

事件後の処理をテキパキとこなし、井伊直弼から罷免されていた一橋派の面々などを即座に復帰させ、体制立て直しを図ります。

「公武合体」も、やり直すためには今一度朝廷と強力な関係を築かなければなりません。
孝明天皇の妹、和宮を14代将軍・家茂(いえもち)のお嫁さんに下さい とお願いします。

当然断られます。
何度お願いしても、何度も断られます。

とうとう、
「通商条約は致し方なく結んだけど、その場しのぎの締結です、10年以内には破棄して鎖国に戻すつもりなんです、ここでお約束しますから!! 」

これこそ、その場しのぎの嘘八百。

孝明天皇の本心は公武合体であり、攘夷です。
ある程度外国と仲良くするのは良いけどズカズカと日本に入って来てほしくないのですから、それが叶うなら、と、和宮の降嫁を承諾します。

人々の反感を買って幕府の威厳は地に落ち、信頼を失くしてボロボロの徳川ですが、それでも将軍家、腐っても鯛。
これでなんとか政局を安定させ、幕府を守れる、と考えたのでしょうか。

いやいや、そんなにうまく行きません。

尊王攘夷派はますます反発し過激になります。

安藤信正が襲われて負傷します。

町では「異人斬り」が続発、ハリスの通訳ヒュースケンが殺され、幕府は、ヒュースケンの母親に賠償金1万ドルを支払いました。

「生麦事件」が起こり、イギリス商人が死傷し賠償問題となります(結局幕府が44万ドル支払います)。

品川に建設中のイギリス公使館を長州藩の久坂玄瑞、高杉晋作たちが焼き討ちしました。

京都では「天誅(てんちゅう)」と称して外国人だけでなく、公武合体派や開国派の公家、武士までもが斬られました。

各地で事件が多発し、将軍家茂はとうとう上洛(将軍自ら上洛するのは229年ぶり)という異例の事態。

こんなに世の中が乱れちゃって!
「破約攘夷」はいつするのよ?? え?

というわけで家茂は孝明天皇に1863年(文久3年)6月25日までに「破約攘夷」(通商条約破棄)を約束させられます。
一応各国に条約破棄の旨を通告はしましたが、結局そんなことは出来ません。

その6月25日、長州藩が下関海峡を通過中のアメリカ商船を砲撃、2週間後にはフランスの軍艦、オランダの軍艦にも砲弾を浴びせ、「下関戦争」勃発。

これを機に高杉晋作が「奇兵隊」編成に着手します。

8月にはイギリスが「生麦事件」の報復で鹿児島湾に進入、犯人の処刑と賠償金を薩摩藩に求めますがこれを断り、「薩英戦争」となります。

不平等条約

長州藩も薩摩藩も負けるのですが、負傷者は外国勢のほうが多かったりして、イギリス、フランス、オランダは長州藩、薩摩藩の強さに感心したりします。

長州藩、薩摩藩も、こちらはこちらで過激な攘夷でしたが、やはり西洋の武器と軍隊のすごさに圧倒され、開国してどんどん取り入れるべきだと実感するのです。

一方幕府は、結局「下関戦争」や「薩英戦争」の責任を取らされ、諸外国に多大な賠償金を支払うと共に通商条約の改定に応じざるを得なくなるのです。

岩瀬忠震らが締結した「日米修好通商条約」では輸入品の関税率は20%、産業が育っていないうちには低関税だと国内産業のダメージは大きくなるという考えで、これは欧米間の協定とほぼ同じ率であり、徳川交渉人の優れた点でした。

それなのに。

1865年7月、イギリスのパークスが来日、朝廷の条約勅許と兵庫開港を求めます。

この時の交渉担当は徳川慶喜(一橋慶喜)で、禁裏 (御所)御守衛総督になっていました。

慶喜はお父さんの徳川斉昭と違って、海外情勢に明るく、近代的な考え方をした人です。

朝廷会議の開催して、開港も条約勅許も拒否すれば、京都が攻められ日本は属国になるかもしれないと公家たちを脅しつつ説き伏せました。

1865年11月、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国が連合艦隊を編成し、兵庫に来航します。

1865年11月22日、孝明天皇も観念して「条約は勅許、開港は不可」との断を下します

パークスは賠償金支払いの延期と兵庫開港の延期を認める代わりに関税一律5%という低率を日本に認めさせたのです。

こうして日米修好通商条約は名実ともに不平等条約と相成りました。

せっかく岩瀬忠震らが頑張って、決して不平等ではない条約締結までに至り、開国の道を開きましたがそれが評価されるのはずっと後です。

井伊直弼も条約そのものは認めていたはずで、すべての責任を負う覚悟で「やむをえぬ場合は仕方がない」と確かに言いました。
が、幕府を守るためには強硬路線を行くしかなかったのです。

「下関戦争」や「薩英戦争」も、言ってみれば国を憂いての出来事。

これは徳川幕府の終わりの始まり。

幕末の動乱はここからが本番となりますが、近代化日本への扉を開いたことだけは間違いありません。

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