尊王攘夷とは何か。夷狄、開国とは。混迷の幕末。-明治維新5-

幕末の庶民
幕末の庶民

「尊皇」「攘夷」「夷狄」「開国」。幕末の混乱期に生まれた言葉です。
朝廷、幕府、武士、商人、農民はそれぞれの立場で何を思い、どこを見ていたのでしょう?

外国と貿易をすることになり欧米に門戸を開いた日本でしたが、朝廷は「通商」を認めていないし幕府の中でも意見はバラバラ、庶民は何もわからずモノ不足とインフレに苦しむのです。

幕府の命を受けた勝海舟・ジョン万次郎・福沢諭吉は海外留学・海外派遣です。 長州五傑(長州ファイブ)・五代友厚・新島襄は命がけの密航です。 ...
日本史上最後の将軍となった慶喜は内乱を避けるため「大政奉還」を行い、 岩倉具視が画策した「王政復古の大号令」によって強引に新政府が樹立され...

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日本を守るためには政治を変えなきゃダメだ

長崎や琉球を通じてもたらされる情報や、ジョン万次郎のような海外経験者もあり、
「開国」をする前から幕府や雄藩、雄志の「海外研究」はかなり正確なものでした。

「日本を守るためには政治を変えなきゃダメだ」

海外事情を知った者は皆、そう思ったことでしょう。

「徳川は徳川のための政治はしてきたが、国のための政治はしてこなかった」

とはNHK大河ドラマ「西郷どん」で渡辺謙さん扮する島津斉彬が言った言葉です。

実際にペリーが来航して、いっそう切実にそう思ったのです。

しかし情報量には大きな個人差があったし、異国のことなど考えも及ばない人もいます。

後に幕末の英雄と呼ばれる人達がいる一方で

まったく情報を得られない者

中途半端な情報しか得られない者

ハナから外国を「夷狄(いてき)」として毛嫌いする者

遠いところの出来事でしかない者

実際にはこういう人たちのほうがはるかに多いのです。

電話もラジオもテレビもなく、移動手段は徒歩か馬の時代。
皆が等しく同じ情報を得ることは不可能です。

確かに徳川幕府はあらゆる面で行き詰まって、まさに改革の時でした。
が、その「改革の必要性」は個人レベルでその根拠と度合いがものすごく違うわけです。

こうした中で日米和親条約、日米修好通商条約、安政の5カ国条約は結ばれ、諸外国とのお付き合いが始まりました。

日本側に満場一致のことなど1つもありません。

幕府の中でも、諸大名も、朝廷の中でも意見はバラバラ。

通商条約締結は幕府が朝廷のお墨付きをもらおうとの画策がみごと外れて「勅許なしの調印」で大もめ。

そこに保身や利害関係や権力争いやあれこれ絡む、まさに混乱状態。

そしてこの「混乱」はどんどん大きくなって日本列島を駆け抜けるのです。

まず、その時の日本の様子を見てみましょう。

庶民の意識

江戸時代の庶民にとって「天皇」の存在は、雲の上の偉い人には違いありませんが全国津々浦々に知れ渡っていたようです。

京都御所は、行事の際、庶民でも禁裏御所の中に入ることができましたので、その空気感は伝わっていたでしょう。

ただそれが「我が国日本の王様」のような意識はなかったのではないでしょうか。

江戸時代までは、一般庶民にとって「国」といえば「藩」であり、それも自分が暮らす土地の範囲くらいの意識でしょう。

自分が「日本という国の国民」だという意識はほとんどなかったのです。

一般庶民が国政に参加どころか、国政を身近に感じるシステムもありませんでした。
普通の庶民が政治的なことなど知る由もないし、まして世界情勢などわかろうはずもありません。

外国との交易が始まっても、庶民の暮らしは今まで通りです。

1854年の「日米和親条約」では下田と函館が開港されましたが、外国人の居留は認められていません。

1858年の「安政の5カ国条約」で外国人の居留が認められましたが、行動は居留地内に限られました。

また、居留地の十里(約40km)四方は外出や旅行ができましたが、これにも制約が多く自由気ままには出来ませんでした。

ですから、よほど居留地に近い地域か観光名所でもなければ庶民は外国人を目にすることもなく暮らしていたのです。

ただ、外国との貿易で国内の物資が不足、物価の高騰など急速に進むインフレは「打毀し(うちこわし)」や百姓一揆を引き起こします。

長州征討や戊辰戦争、各地で起きる内乱なども民衆に大きな打撃を与えました。

庶民の暮らしに直接的な影響があるのはもっと後、明治政府樹立後の廃藩置県など国の制度が変わる時、その時にようやく「日本が変わる」ことを実感したのだと思います。

武士の意識

武士はいってみれば官吏(役人)の立場ですから、下級武士にしてもある程度国政の情報を得るチャンスはあったでしょうし、幕府の動向と我が藩の動向に敏感な人もいたでしょう。

それぞれが藩を憂い、国を憂えてさまざまに行動を起こします。

「安政の5カ国条約」を締結してからというもの、本当に次から次へと事件が起こりました。
その背景には、この時代の「武士」の心境や「生き方」があると想像できます。

「切捨御免」の精神

この時代、「切捨御免(斬捨御免)」はまだ正しく認められています。
「武士が耐え難い無礼を受けた時は切っても処罰されない」という武士に与えられた殺人の特権です。

「切捨御免」の ”御免”は、斬る相手にごめんねと謝っているのではなく、お上が免ずる(許す)という意味です。

とはいっても「耐え難い無礼」の判定は相当厳しく、処罰されないことはほとんどなかったようで、
切るほうの武士も命がけ、自分の命だけならまだしもお家お取り潰しの可能性だってあります。

まして天下泰平の江戸時代、そうそう頻繁に刃傷沙汰はなかったのです。

刃傷沙汰はなくても、お侍さんは常に刀を携帯しています。
使うことがなくても、寝る時も肌身はなさず持っています。

刀は武士の証であり、勲章であり、プライドです。

武士は、戦はせずとも武士としてのプライドと「切捨御免」の精神で生きていました。

「藩」の中の「個人」

一般庶民もそうですが、武士もまた、「国」といえば「藩」の感覚である時代です。

個人の「考え」や「方針」は、「藩」に従う、藩あっての個人の人生 が基本です。
「藩命」に逆らうことは出来ません。
逆らうなら、脱藩は覚悟の上です。

ですから「藩論」は1つであり、行動はそれにともなうものになります。

しかし、当然ながら視点や考え方は個人個人違います。

「藩を思って」の行動が「藩主の意向」に沿わないことは多々あります。

本当に藩政を憂い、日本国を憂い、海外に目を向ける「個人」の思考に藩の大小や優劣は関係ありません。

もちろん、将来活躍する人を輩出しやすい藩、地域、環境はあったとしても、
下級藩の下級武士や町人に優れた人がいたって当たり前です。

実際、西郷隆盛(薩摩藩)も木戸孝允(長州藩)も坂本龍馬(土佐藩)も、名もない下級武士です。

幕末、世界の列強が迫る前代未聞の動乱の時代、この 名もない人たち が真剣に藩や国のことを思ってした発言や行動が藩を動かし、「藩の意志」となり、やがて彼らが中心となって歴史を動かすことになってゆきます。

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幕末の雄藩 彦根藩、薩摩藩、長州藩、会津藩

「藩」は幕末には約280藩ほどありました。
国持(くにもち)と呼ばれる大藩からお城もない極小藩までさまざまです。

政治的な「権力」の順番をいえば
朝廷
幕府
徳川直系の「親藩」(徳川御三家が筆頭)
徳川ゆかりの「譜代」藩(関ヶ原の戦以前から徳川に仕える)
「外様」藩(関ヶ原の戦以後に徳川に仕える)
その他
が基本の順列です。

例えば彦根藩井伊家は譜代大名の筆頭で、「徳川四天王」の一つとして江戸時代を通じ5代6度のの大老職を勤め、「徳川御三家」と並ぶ力を持っていました。

薩摩藩島津家は、徳川の敵として西軍についた「関ヶ原の戦い(1600年)」の後に井伊直政のとりなしで薩摩藩を立て、8代藩主重豪(しげひで)以降2度も将軍の正室を出し、外様大名でありながら中央政治に関わる発言権を持つことになります。

徳川将軍家は親藩、譜代との婚姻の他、皇室・公家からの降嫁で朝廷の権威を後ろ盾として来た中、外様大名から正室を迎えたのは薩摩藩だけです。

薩摩藩の「郷中(ごじゅう)」は武士階級の子の教育法で、人として、武士として生きるための重要な基礎となりました。

幕末の長州藩は現在の山口県が領地です。

戦国時代に毛利元就が活躍し有力大名となった毛利家は「関ヶ原の戦い」で西軍の総大将となり敗北、領地を4分の1に減封されますが、猛烈な幕政改革で領地を拡大、どこよりも裕福な有力外様大名となります。

関ヶ原以後の経緯から、長州藩には基本、「打倒 徳川」の思いがずっとあるのです。

藩主が厳しく支配するというより、身分を問わずガンガン取り立てる自由な気質があったようですが、この根底には虐げられたものが再起する執念が感じられます。

会津地方は波乱の戦国時代、領主が次々と替わります。

豊臣秀吉の死去後徳川家康が権勢を振るう中、当時会津地方を治めていた元豊臣五大老の一人上杉景勝は家康に逆らったため「会津征伐」が始まり、「関ヶ原の戦い」へとなだれ込みます。

関ヶ原の後40年余の紆余曲折を経て徳川親藩・会津松平家の保科家が治めることになり、やがて「松平」と改姓、御家門(ごかもん、名家の一族)として隆盛を誇るも次第に財政は破綻、
第9代藩主容保(かたもり)は苦しい中、幕末の動乱に翻弄されることになります。

会津藩の「什(じゅう)」は「八重の桜」でも有名になった教育システムで、「ならぬ事はならぬものです」は、会津人の基本です。
薩摩藩の「郷中」と通じるものがあります。

会津藩のスピリットは、会津松平家の宗家である徳川将軍家には絶対の忠誠を尽くす「会津藩家訓十五ヶ条」にあり、「什の掟」とともに現代まで受け継がれています。

朝廷・公卿・公家

「朝廷」とは、天皇(と貴族)が政治を行うところ。
「幕府」とは、将軍が政治を行うところ。

「公卿(くぎょう)」は公 (こう) と卿 (けい) の総称。公家の中の最高幹部。
「公」は太政大臣・左大臣・右大臣。
「卿」は大納言・中納言・参議などの高官。

「公家」は、官位に関係なく朝廷に勤める人達。
必ずしも皇族の血を引くとは限りませんが、武家を除きます。

鎌倉時代以降は朝廷が直接政治をすることはなく、政治は幕府が行います。

幕末の時の天皇は孝明天皇(こうめいてんのう)で、その前の仁孝天皇の第四皇子、
1846年、25歳の時に第121代天皇に即位しました。

1854年の「日米和親条約」締結の8年前です。

孝明天皇は大の外国嫌いで有名ですが、ただ外国キライ!大ッキライ!とワガママを言っていたわけではありません。

神国日本の頂点にいる王として、悠久の歴史と伝統を守る使命を一身に背負い、国民の幸せを一番に願うからこその「攘夷」でした。

「攘夷」という言葉は孝明天皇の言葉です。

外国と仲良くする「和親条約」は、なんら異議はないものの、それ以上の付き合いは、神国日本を根底から崩壊させるかも知れないことを恐れました。

「通商条約」の勅許を出さなかったのはタダのワガママではなく、「通商」を拒否すれば戦争になる可能性もわかっていたので、軍備のための節約を指示したくらいでした。

それでも、戦争になってでも、外国に日本が蹂躙されることを拒否しなければならないと考えたのでした。

もちろん、朝廷にも公家にも開国支持者はいましたし、意見はバラバラでしたから、孝明天皇も大変な思いをするのです。

長州藩は、孝明天皇の「攘夷」に賛同し、朝廷や公家と懇意になることによって幕府を動かそうと画策しますが、その「攘夷」は孝明天皇の本意とは違っていたようで「長州征討」を引き起こすことになります。

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