長州征討第一次・第二次と薩長同盟(薩長盟約)-明治維新6-

孝明天皇
孝明天皇

公武合体を支持し徳川慶喜を将軍後見職に推したほどの薩摩藩が本当に倒幕に転じたのか。
徳川幕府が弱体化する一方で朝廷の権威・位置付けはどんどん上昇する中、天皇を奪い合う幕末の権力闘争が始まります。

「尊皇」「攘夷」「夷狄」「開国」。幕末の混乱期に生まれた言葉です。 朝廷、幕府、武士、商人、農民はそれぞれの立場で何を思い、どこを見ていた...
日本史上最後の将軍となった慶喜は内乱を避けるため「大政奉還」を行い、西郷・大久保・岩倉の「王政復古」クーデターによって強引に新政府が出来、9...

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長州征討までの成り行きー徳川幕府の衰退と朝廷の権威上昇

幕府は勅許を待たずに通商条約を結び孝明天皇の逆鱗に触れました。

孝明天皇は怒り心頭ながらまとまらない幕府を憂慮し、徳川御三家のひとつである水戸藩徳川斉昭に手紙を書きますが(戊午の密勅)、これが安政の大獄を招き、桜田門外の変を引き起こします。

徳川幕府の最高職、大老・井伊直弼の暗殺は現代で言えば総理大臣が暗殺されたようなもの。
幕府の権威を著しく失墜させ、激烈な尊皇攘夷運動につながる一方で朝廷の政治的な威厳をいっそう高めることになります。

もはや衰退の一途をたどる徳川幕府。

夷狄から神国日本を守りたい孝明天皇はなにがなんでも攘夷を貫きます。

幕府は権威回復のために将軍家茂(いえもち)と皇女和宮(孝明天皇の妹)との政略結婚を画策しますが孝明天皇は頑として受け入れません。

しかし孝明天皇は徳川と敵対することは本意でなく、幕府と協調して日本を守りたいのです。

和宮の降嫁を承諾する代わりに「破約攘夷」を条件とします。

幕府は

「はい、わかりました! 必ず条約を破棄し、鎖国に戻します!」

と約束します。

そうはいっても通商条約は締結したのですから貿易はガンガン行われ、今更止めるなんて出来ないことは火を見るより明らか。

幕府はこのまま開国路線を行くしかないのだけれど、だからこそ、どんな手を使っても、どれだけお金を使っても、皇族和宮を将軍の嫁にすることが何より大事でした。

それがまた諸藩の幕府への不信と不満を増長させ、この時の老中安藤信正はこの結婚に反対する水戸藩士の襲撃に遭い負傷します。

幕府存続のために「公武合体」を強化する徳川幕府

徳川幕府の至近距離にあり、政治の中央に位置しようと目論む薩摩藩

盛んに皇室や公家と交流し、なおかつ根本に「倒幕」の意識のある長州藩

しかしこの時は薩摩も長州も、「幕政の改革」を目指すのであって、「倒幕」ではありません。

鎖国か開国か、

攘夷か交易か、

朝廷の中でも真っ二つ、幕府の中でも真っ二つ、諸藩も真っ二つに意見が分かれる中、

日本国の最高位に君臨する天皇の意向 が ことのほか重要になり

朝廷の権威はどんどん、どんどん上昇、

御簾の奥で物言わぬ天皇 は 政治の中央で司令を出す天皇 と変化していました。

長州藩は外国人みんな斬る! の強硬攘夷で、「孝明天皇の攘夷」とはちょっと(かなり)違うのですが孝明天皇の攘夷に乗じ、朝廷を通じて幕府に攘夷を迫ります。

薩摩藩は「開国攘夷」であり、「公武合体」を支持し幕政改革のために朝廷の勅使と共に江戸に下り、徳川慶喜を将軍後見職へと尽力。

「一会桑」の登場と長州征討

尊攘派のテロ行為は日を追って激しくなり、各地で争いが起こります。
海外貿易が招く国内のインフレは一般庶民を苦しめ、「攘夷」の感情をますます煽ります。

そうはいっても今更「破約」など出来ない幕府はとりあえず横浜港を閉鎖することで朝廷との調整を図っていました。

そんな中、1862年、徳川親藩の中で強力な軍事力を持つ会津藩主・松平容保(かたもり)が京都守護職に任命されます。
この頃の京都では攘夷運動が過激になり、ことのほか治安が悪化していたためです。

続いて一橋慶喜(徳川慶喜)は将軍後見職を辞めて禁裏御守衛総督というポストに就きます。

その翌月、容保の実弟、桑名藩主・松平定敬(さだあき)が京都所司代となります。

この三者が「一会桑」(いちかいそう)。
良くも悪くも幕末の動乱の「要因」となってゆくのです。

さて、荒れに荒れる攘夷運動、
特に自由奔放な(?)長州藩の過激派は御所のある京都で「天誅(てんちゅう)」と称して公武合体派や開国派を誰彼かまわず斬りつけるなどの暴行を繰り返します。
いかに攘夷行動とはいえ無茶苦茶です。

あまりに過激な長州藩のテロ行為には朝廷もほとほと困惑していました。
孝明天皇は、攘夷の実行はあくまでも幕府が主体となって行うべきと考えているし、だれかれ構わず切りつける攘夷なんて言語道断です

京都守護職として朝廷と天皇を守り、京都市中の治安を守る会津藩は、薩摩藩の協力を得て尊攘派一掃計画を提案、朝議によって長州藩と急進派公卿7人を京都から追放します。

これが八月十八日の政変。
長州藩と、長州に迎合したとみられる公家は京都から追放”
 となりました。

皇国日本を第一に思いながらも天皇の意に反したテロリストのレッテルを貼られた長州藩は必死に朝廷に申し開きをしますが理解してもらえません。
ジレンマに悶える過激派は京都守護職(会津藩)を血祭りにあげると吠え、久坂玄瑞は京都を取り戻すと意気込みます。

ついに長州は京都を襲撃、市街に火を放ち、こともあろうに御所に押し入ります。

長州藩にしてみれば、御所には攻め入ったのではなく、長州藩の尊皇攘夷の精神を天皇にわかってほしかった、朝廷として許す、と言って欲しかったのですが、あまりの暴挙、許されるはずがありません。

果たして長州藩は惨敗、久坂玄瑞と寺島忠三郎は鷹司邸で刺し違えて自決します。(「禁門の変」)

これによって長州藩は「朝敵」となり、この後、朝廷は幕府に「長州征討」の勅令を発します。

これが長州が会津を憎む決定的な出来事となってしまい、少なからず現代にまで影響を及ぼしているようです。

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第一次長州征討ー小競り合いをやっている場合ではないと思う諸藩、攘夷の民衆

幕府は長州征討の命を受け、禁門の変を起こした長州の責任を問い伏罪させるために35藩15万人を動員します。

が、動員された諸藩にしてみれば迷惑千万と思う人が多く、会津藩に対する不満もあったようです。

お金はかかるし、兵も失うし、もうそんな体力はないし。
江戸時代の長きに渡る平和に生きた武士は命が大事、家族が大事。
それに、朝廷と癒着して独裁を欲しいままにしている「一会桑」には協力したくないし!

誰も戦争などしたくなかったのです。

なにより、迫り来る諸外国と戦うにしてもうまくやるにしても、国内で内輪もめしてる場合じゃないでしょ!

というのは誰もが感じていたことのようです。
だからなおさら「少数派の一会桑」がコトを運ぶ現状には納得できないと思うでしょう。

肝心の幕府とてそれは同じ。

天皇が絶大な信頼を寄せる一会桑はもはや京都でひとつの政権を築いていました。

一会桑、でしゃばり過ぎで気に入らない、という反発は小さくありません。

島国日本では外国人は脅威だったでしょうね。
同じ人間とは思えない外見、コトバもわからないし得体が知れない怪物でしょう。
この頃は 攘夷があたりまえ です。
長州藩に味方する諸藩も多いのです。
なおのこと、直接巻き込まれるのは御免とばかりに傍観の構えが大半です。

そんな頃、諸外国が薩英戦争や下関事件の報復で攻めてくるという噂がありました。

なにかと周囲の風当たりの強い一会桑です。
長州征討より先に外国が攻めてきたら、一会桑が外国の力を借りて長州を成敗したと言われかねません。

なんとしてもその前に長州問題を解決しなければ!!

そんなこんなで結局、一会桑が中心となって無理やり長州征討実行に向かわざるを得なくなりますが、とにかく戦争したくない人たちばっかりです。

てことで、幕府軍総督・徳川慶勝は萩口先鋒を任された西郷隆盛の案を採用し平和的解決策を取ります。

西郷は勝海舟から、戦闘によって諸藩が体力を消耗することを避け、世界に目を向けることが大事だと聞かされ大いに納得し、
この戦争は、幕府もまた幕府の権威維持とともに有力藩の勢力を削ごうと目論んでいる、
と考えたのです。

禁門の変で大きな痛手を負った長州藩も今は引くべきと考え、総督府へ謝罪文を提出し幕府への恭順を誓って降伏しました。

第1次長州征討はほぼ争うことなく終結しました。

表面上は恭順した長州藩も基本は「打倒徳川、会津憎し」でした。

高杉晋作配下の山縣有朋率いる奇兵隊、伊藤博文率いる力士隊などは臨戦態勢で、一旦は説得されても、一会桑や幕府への対抗心は高まるばかり。
高杉晋作は自分たち改革派を「正義派」、おとなしく幕府に恭順しようという人たちを「俗論派」と名づけて、長州藩内での対立も激しくなります。

薩長の盟約

この直後(1865年11月)、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国が連合艦隊を編成し、兵庫に来航、いよいよ朝廷の条約勅許を求めます。

幕府だって、薩英戦争、下関戦争で欧米の脅威の軍事力を目の当たりにしています。
孝明天皇もとうとう観念し、通称条約勅許を決断します。

幕府は、対外国との戦争責任を追求され、条約は文字通り「不平等条約」となってしまいます。

ただし兵庫港開港は不可、西洋医学は禁止など出来る限りの防護策を講じたのです。

かつて敵対していた薩摩藩と長州藩も、先の戦争で外国の軍事力に驚き、外国相手に戦争など出来るわけがないことを痛感します。

「幕政改革」で重要なのは日本が一丸となること、そのためにはなんとしても直接政治にかかわらなければならないと決意を新たにします。

両藩は「薩長盟約」を結び、敵対せず、協調しようと歩み寄ります。

これを「薩長同盟」とするのが一般的なようでしたが、史実は「同盟」を結んでいるのではないそうですので、しいて言えば「盟約」ということだろうとのことです。

第2次長州征討で幕府軍は惨敗

通商条約勅許の問題が一段落すると、次は長州藩の処分問題です。

二条城に老中と一会桑が集まった幕府のトップレベル会議では、
廃藩も視野に入れた厳罰を主張する老中もいる中、京都守護職・松平容保は寛大な処分を提案します。

江戸にいてはわからない状況、つまり京都だけでなく西日本諸藩の攘夷支持、民衆の長州支持を考えると厳罰路線はキケンだというわけです。

会津藩にしても、京都での長州藩との直接対決で長州藩だけでなく民衆まで会津ギライが大多数なのを知っていますから、厳罰に処すのはマズイ、と。

まぁとにかく、長州藩の事情聴取をしてみて、それから処分を決めようか、となったけど長州藩が事情聴取に応じない。

幕府のトップレベル会議と朝廷との会議で、結局長州征討に向かわざるを得なくなってゆく、
のが「第2次長州征討」の成り行きのようです。

そうなれば幕府側は当然「一会桑」が中心となりますが、「一会桑」は風当たりが強い・・・。
戦闘能力の高い会津藩とはいえ先鋒を切れば会津の「私戦」と受け取られかねない・・・。

頼りになるのはやはり軍事力の高い薩摩藩だけど、出兵拒否!

薩摩藩は「3家老を切腹させて謝罪した長州を追討するのはおかしい」と異議を唱えますがもはや聞き入れられません。

薩摩藩は「長州征討は幕府と長州の私怨だ」として長州側につきますが、戦いには参加しないと決めています。
密かに盟約を交わしていますからね。

でも、コトの経緯はどうであれ、結局世間の評価は

結局世間の評価は、長州再征討は「一会桑」が朝廷に強く迫ったことになる

のです。
特に薩摩藩は痛烈に一会桑を批判しました。

この時薩摩藩は朝廷と幕府を見限った、とする説もあります。

幕府は諸藩の協力を仰ぎますが、出兵を拒否する藩が多くありました。

諸藩にしてみれば幕府に味方したって良いことはなにもないからです。
しかもこの大インフレで生活の苦しい時に戦争して破壊して、さらにモノがなくなる、冗談じゃない!

徳川慶喜も、もう戦いたくなかったとする説もあります。

でも、将軍家茂は行けという。

やるからには勝たねばならぬ。

1866年7月、第2次長州征討。
この戦いから海外の武器が本格的に日本の戦で使われます。

欧米との戦争で、むしろ連合艦隊側との関係を築きつつあった薩摩藩がグラバー商会を通じて西洋の武器を調達し、長州に流しました。

グラバー商会とは、隣の清国にアヘン戦争を仕掛けた「死の商人」ジャーディン・マセソン社の日本代理店です。

薩摩藩とは密接に関係しますが、必要とあらば(利益になると思えば)幕府にだってどこにだって何だって売ります。

ですがこの時、欧米4カ国は内乱には関知しないとの協定を結び、厳正中立と密貿易の禁止を幕府と約束していましたので長州藩に直接武器を売ることは出来ません。

が、長州征討には不参加を表明した薩摩藩なら武器を購入することが出来ます。

第二次長州征討の時は、グラバー商会の悪魔の計画が役に立ちました。

ここで坂元竜馬の「亀山社中」も登場します。

密貿易はお手の物だった薩摩藩はグラバー商会から武器を購入、
お金のない長州藩は「米(コメ)」で薩摩に代金を支払う、
慢性的に米不足の薩摩は堂々と長州から米を購入、
お金はグラバーへ移動する。

薩摩藩もそうはいっても高価な新式武器をほいほいと買えるほど裕福ではなく、グラバー商会はまた、薩英戦争やら何やらで幕府から巻き上げた賠償金や、幕府が発注した武器の代金を薩摩に流したりしていたようです。

「亀山社中」はグラバー商会と薩摩の連絡や、武器や米の物流を担当していました。

亀山社中をうまく使って、物流のつじつま合わせとマネーロンダリングをしていたのですね。

一方、徳川幕府は主な軍事援助をフランスに頼り、武器調達もフランスを頼りました。
銅製施条カノン砲16門の製造をロッシュに依頼すると、この大砲は長州征討の直前に届きました。

かくして中途半端な「第1次長州征討」のケリをつけるべく始まった「第2次長州征討」ですが、たった2ヶ月で長州藩の勝利に終わります。

勝因は、新兵器の威力、大村益次郎の戦術、よく訓練された軍の士気の高さなどが指摘されています。

対する幕府軍は、いちおう頭数は揃えたものの、強い会津藩も薩摩藩もいません。
士気はめちゃめちゃ低いし、「一丸」となっていないですから。
開戦はしたものの連敗を喫していた幕府軍。

さらに、もうひとつの敗北の理由。

開戦1ヶ月後に将軍家茂が大阪城で病死

これを聞いて慶喜は幕府の拠点である小倉城が落ちるとあっさりと出陣を中止します。

え? ええ〜〜? やめちゃうの?

朝廷上層部や会津藩の怒りや猛反対を押し切り
休戦交渉にはネゴシエーター勝海舟を派遣して交戦を中止、休戦協定を締結するのです。

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恐るべし、最後の将軍 徳川慶喜 !

将軍家茂の死と幕府軍の敗北は、もはや徳川幕府が風前の灯であることを世間に知らしめ、
反幕府勢力は幕府壊滅をねらって動き出します。

朝廷では追放されて蟄居生活から復活した岩倉具視が支持勢力を広げ、徐々に頭角を現すことになります。

家茂の死後、頑として将軍職を固辞し続けていた徳川慶喜は、長州征討を終えた翌年(1867年)1月、孝明天皇に強く要望されようやく征夷大将軍の座につきますが、なんとその20日後に孝明帝は崩御します。

孝明帝の死は痘瘡(とうそう)による病死とされていますが、毒殺説もあり岩倉具視がかかわっていたとされる説があります。

2月、睦仁(むつひと)親王が満14歳で践祚(せんそ、天子の位に就くこと)し、新天皇が誕生します(明治天皇です)。

徳川幕府に見切りをつけた薩摩藩と、幕府と完全に敵対した長州藩の反幕府活動はさらに加熱しますが、でもまだ「倒幕」じゃないのです。

新しい慶喜政権は次々と新しい政策に打って出ます。

確かに孝明天皇という強力な後ろ盾を失ったことは大きいけれど、反面、孝明天皇の何がなんでも攘夷!という足かせがなくなったことのほうが慶喜にとっては大きかったと見えます。

フランス公使ロッシュの助言により外交に力を入れる他、人事を固め、軍備の増強、国際法の研究や行政の近代化を進めます。

欧米は、幕府権力の強化を図る慶喜について「新しい国王の誕生だ」と歓迎します。

木戸孝允も「じつに家康の再生を見るようである」と、その剛腕ぶりを警戒し、岩倉具視は「軽視すべからざる強敵」と受け止めていました。

慶喜はまた、会津藩・桑名藩と連携し、朝廷との密接な連携をとっていました。
長らく見送られてきた兵庫港開港も朝廷を説き伏せ勅許を勝ち取ります。

一方の薩摩藩や長州藩、一部の公卿などもまた、朝廷への工作を強めていました。

それでも慶喜の政治力のほうが1枚上手でした。

結局、慶喜が将軍になって以来、
薩摩藩は自分たちも政治参加した上での公武合体をイメージしていたのに諸公会議も四侯会議も慶喜主導となっているし、

岩倉具視も未だに朝廷内で主導権を得られていないし。

民衆は強烈なインフレに苦しみ、世直しを訴えて熱狂的に踊る ”ええじゃないか” が京都を中心に各所で流行しました。


西郷は慶喜の有能さをよく知っていました。

それだけに慶喜を恐れたのかもしれません。

このままではいかん!!
慶喜にまかせておいてはいかん!

薩摩の西郷、大久保は 打倒!旧体制 を強く意識するのです。

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