大政奉還と王政復古、薩摩は倒幕へ転じたのか?-明治維新6-

孝明天皇
孝明天皇

日本史上最後の将軍となった慶喜は内乱を避けるため「大政奉還」を行い、
岩倉具視が画策した「王政復古の大号令」によって強引に新政府が樹立され
900年以上続いた摂関制度、260余年にわたる徳川幕府は終焉を迎えます。

公武合体を支持し徳川慶喜を将軍後見職に推したほどの薩摩藩が本当に倒幕に転じたのか。
徳川幕府が弱体化する一方で朝廷の権威・位置付けはどんどん上昇する中、
ここから本格的に天皇を奪い合う幕末の権力闘争が始まります。

「尊皇」「攘夷」「夷狄」「開国」。幕末の混乱期に生まれた言葉です。 朝廷、幕府、武士、商人、農民はそれぞれの立場で何を思い、どこを見ていた...
鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争の始まりとなった戦争で、薩摩・長州が倒幕のために仕掛けました。 西郷たちがクーデターまで起こしたのに徳川慶喜...

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大政奉還までの成り行きー徳川幕府の衰退と朝廷の権威上昇

幕府は勅許を待たずに通商条約を結び孝明天皇の逆鱗に触れました。

孝明天皇は怒り心頭ながらまとまらない幕府を憂慮し、徳川御三家のひとつである水戸藩徳川斉昭に手紙を書きますが(戊午の密勅)、これが安政の大獄を招き、桜田門外の変を引き起こします。

徳川幕府の最高職、大老・井伊直弼の暗殺は
幕府の権威を著しく失墜させ、激烈な尊皇攘夷運動につながる一方で朝廷の政治的な威厳をいっそう高めることになります。

もはや衰退の一途をたどる徳川幕府。

夷狄から神国日本を守りたい孝明天皇はなにがなんでも攘夷を貫きます。

幕府は権威回復のために将軍家茂(いえもち)と皇女和宮(孝明天皇の妹)との政略結婚を画策しますが孝明天皇は頑として受け入れません。

しかし孝明天皇は徳川と敵対することは本意でなく、幕府と協調して日本を守りたいのです。

和宮の降嫁を承諾する代わりに「破約攘夷」を条件とします。

幕府は

「はい、わかりました! 必ず条約を破棄し、鎖国に戻します!」

と約束します。

そうはいっても通商条約は締結したのですから貿易はガンガン行われ、今更止めることなど出来ないことは火を見るより明らか。

このまま開国路線を行くしかないことは幕府にもわかっていたけれど、どんな手を使っても、どれだけお金をバラ撒いても、和宮降嫁を実現することが何より大事でした。

それがまた幕府への不信と不満を増長させ、この時の老中安藤信正はこの結婚に反対する水戸藩士の襲撃に遭い負傷します。

幕府存続のために「公武合体」を強化する徳川幕府

徳川幕府の至近距離にあり、政治の中央に位置しようと目論む薩摩藩

盛んに皇室や公家と交流し、なおかつ根本に「倒幕」の意識のある長州藩

しかしこの時はあくまでも皆、「幕政の改革」を目指すのであって、「倒幕」ではありません。

鎖国か開国か、

攘夷か交易か、

朝廷の中でも真っ二つ、幕府の中でも真っ二つ、諸藩も真っ二つに意見が分かれる中、

日本国の最高位に君臨する天皇の意向 が ことのほか重要になり

朝廷の権威はどんどん、どんどん上昇、

御簾の奥で物言わぬ天皇 は 政治の中央で司令を出す天皇 と変化していました。

長州藩は外国人みんな斬る! の強硬攘夷で、「孝明天皇の攘夷」とはちょっと(かなり)違うのですが孝明天皇の攘夷に乗じ、朝廷を通じて幕府に攘夷を迫ります。

薩摩藩は「開国攘夷」であり、「公武合体」を支持し幕政改革のために朝廷の勅使と共に江戸に下り、徳川慶喜を将軍後見職に就かせます。

「一会桑」の登場と長州征討

尊攘派のテロ行為は日を追って激しくなり、各地で争いが起こります。
海外貿易が招く国内のインフレは一般庶民を苦しめ、「攘夷」の感情をますます煽ります。

そうはいっても今更「破約」など出来ない幕府はとりあえず横浜港を閉鎖することで朝廷との調整を図っていました。

そんな中、1862年、徳川親藩の中で強力な軍事力を持つ会津藩主・松平容保(かたもり)が京都守護職に任命されます。
この頃の京都では攘夷運動が過激になり、ことのほか治安が悪化していたためです。

続いて一橋慶喜(徳川慶喜)は将軍後見職を辞めて禁裏御守衛総督というポストに就きます。

その翌月、容保の実弟、桑名藩主・松平定敬(さだあき)が京都所司代となります。

この三者が「一会桑」(いちかいそう)。
良くも悪くも幕末の動乱の「要因」となってゆくのです。

さて、荒れに荒れる攘夷運動、
特に自由奔放な(?)長州藩の過激派は御所のある京都で「天誅(てんちゅう)」と称して公武合体派や開国派を誰彼かまわず斬りつけるなどの暴行を繰り返します。
いかに攘夷行動とはいえ無茶苦茶です。

あまりに過激な長州藩のテロ行為には朝廷もほとほと困惑していました。
孝明天皇は、攘夷の実行はあくまでも幕府が主体となって行うべきと考えています。

京都守護職として朝廷と天皇を守り、京都市中の治安を守る会津藩が中心となり、薩摩藩の協力を得て尊攘派一掃計画を提案、朝議によって長州藩と急進派公卿7人を京都から追放します(八月十八日の政変)。

こうして長州藩は”京都出禁”となりました。

皇国日本を第一に思いながらも天皇の意に反したテロリストのレッテルを貼られた長州藩は必死に朝廷に申し開きをしますが理解してもらえません。
ジレンマに悶える過激派は京都守護職を血祭りにあげると吠え、久坂玄瑞は京都を取り戻すと意気込みます。

ついに長州は京都を襲撃、市街に火を放ち、こともあろうに御所に押し入ります。

長州藩は御所には攻め入ったのではなく、長州藩の尊皇攘夷の精神を天皇にわかってほしかった、
朝廷として許す、と言って欲しかったのですが、あまりの暴挙、許されるはずがありません。

果たして長州藩は惨敗、久坂玄瑞と寺島忠三郎は鷹司邸で刺し違えて自決します。(「禁門の変」)

これによって長州藩は「朝敵」となり、この後、朝廷は幕府に「長州征討」の勅令を発します。

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第一次長州征討ー小競り合いをやっている場合ではないと思う諸藩、攘夷の民衆

幕府は長州征討の命を受け、禁門の変を起こした長州の責任を問い伏罪させるために35藩15万人を動員します。

が、動員された諸藩にしてみれば迷惑千万と思う人が多かった!

お金はかかるし、兵も失うし、もうそんな体力はないし。
江戸時代の長きに渡る平和に生きた武士は命が大事、家族が大事。
それに、朝廷と癒着して独裁を欲しいままにしている「一会桑」には協力したくないし!

誰も戦争などしたくなかったのです。

なにより、迫り来る諸外国と戦うにしてもうまくやるにしても、国内で内輪もめしてる場合じゃないでしょ!

というのは誰もが感じていたことのようです。
だからなおさら「少数派の一会桑」がコトを運ぶ現状には納得できないと思うでしょう。

肝心の幕府とてそれは同じ。

天皇が絶大な信頼を寄せる一会桑はもはや京都でひとつの政権を築いていました。

一会桑、でしゃばり過ぎで気に入らない、という反発は小さくありません。

攘夷が民意のこの頃、長州藩に味方する諸藩も多いのです。
なおのこと、直接巻き込まれるのは御免とばかりに傍観の構え。

そのころ、諸外国が薩英戦争や下関事件の報復で攻めてくるという噂がありました。

なにかと周囲の風当たりの強い一会桑です。
長州征討より先に外国が攻めてきたら、一会桑が外国の力を借りて長州を成敗したと言われかねません。

なんとしてもその前に長州問題を解決しなければ!!

そんなこんなで結局、一会桑が中心となって無理やり長州征討実行に向かわざるを得なくなりますが。
戦争したくない人たちばっかりです。

てことで、幕府軍総督・徳川慶勝は萩口先鋒を任された西郷隆盛の案を採用し平和的解決策を取ります。

西郷は勝海舟から、戦闘によって諸藩が体力を消耗することを避け、世界に目を向けることが大事だと聞かされ大いに納得し、
この戦争は、幕府もまた幕府の権威維持とともに有力藩の勢力を削ごうと目論んでいる、
と考えたのです。

禁門の変で大きな痛手を負った長州藩も今は引くべきと考え、総督府へ謝罪文を提出し幕府への恭順を誓って降伏しました。

第1次長州征討はほぼ争うことなく終結しました。

表面上は恭順した長州藩も基本は「打倒徳川、会津憎し」であり、
高杉晋作配下の山縣有朋率いる奇兵隊、伊藤博文率いる力士隊などは臨戦態勢であったので
一旦は説得されても、一会桑や幕府への対抗心は高まるばかり、
高杉晋作は自分たち改革派を「正義派」、おとなしく幕府に恭順しようという人たちを「俗論派」と名づけて、長州藩内での対立も激しくなります。

薩長同盟

この直後(1865年11月)、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4カ国が連合艦隊を編成し、兵庫に来航、いよいよ朝廷の条約勅許を求めます。

幕府だって、薩英戦争、下関戦争で欧米の脅威の軍事力を目の当たりにしています。
孝明天皇もとうとう観念し、通称条約勅許を決断します。

対外国との戦争責任を追求され、条約は文字通り「不平等条約」となってしまいます。

ただし兵庫港開港は不可、西洋医学は禁止など出来る限りの防護策を講じたのです。

かつて敵対していた薩摩藩と長州藩も、先の戦争で外国の軍事力に驚き、外国相手に戦争など出来るわけがないことを痛感します。
「幕政改革」で重要なのは日本が一丸となること、そのためにはなんとしても直接政治にかかわらなければならないと決意を新たにします。

両藩は「薩長同盟」を結び、開国ありきの攘夷に方向転換します。

第2次長州征討で幕府軍は惨敗

通商条約勅許の問題が一段落すると、次は長州藩の処分問題です。

二条城に老中と一会桑が集まった幕府のトップレベル会議では、
廃藩も視野に入れた厳罰を主張する老中もいる中、京都守護職・松平容保は寛大な処分を提案します。

江戸にいてはわからない、京都だけでなく西日本諸藩の攘夷支持、民衆の長州支持を考えると厳罰路線はキケンだというわけです。

会津藩にしても、長州藩との直接対決で長州藩だけでなく民衆に至るまで会津憎し!が大多数なのを知っていますから、厳罰に処すのはマズイ、と。

まぁとにかく、長州藩の事情聴取をしてみて、それから処分を決めようか、となったけど長州藩が応じない。

幕府のトップレベル会議と朝廷との会議で、結局長州征討に向かわざるを得なくなってゆく、
のが「第2次長州征討」の成り行きのようです。

そうなれば当然「一会桑」が中心となりますが、「一会桑」は風当たりが強い・・・。
戦闘能力の高い会津藩とはいえ先鋒を切れば会津の「私戦」と受け取られかねない・・・。

頼りになるのはやはり軍事力の高い薩摩藩だけど、出兵拒否!

「3家老を切腹させて謝罪した長州を追討するのはおかしい」と異議を唱えますがもはや聞き入れられず、「幕府と長州の私怨だ」として長州側につくも戦いには参加しません。

密かに薩長同盟を結んでいますしね。

でも、コトの経緯はどうであれ、結局

長州再征討は「一会桑」が朝廷に強く迫った

と言われるのです。
特に薩摩藩は痛烈に一会桑を批判しました。

この時薩摩藩は朝廷と幕府を見限った、とする説もあります。

幕府は諸藩の協力を仰ぎますが、出兵を拒否する藩が多くありました。

諸藩にしてみれば幕府に味方したって良いことはなにもないからです。
しかもこの大インフレで生活の苦しい時に戦争して破壊して、さらにモノがなくなる、冗談じゃない!

徳川慶喜も、もう戦いたくありませんでした。

でも、将軍家茂は行けという。

やるからには勝たねばならぬ。

1866年7月、第2次長州征討。
この戦いから海外の武器が本格的に日本の戦で使われます。

欧米との戦争で、むしろ連合艦隊側との関係を築きつつあった薩摩、長州藩はグラバー商会を通じて西洋の武器を調達しました。

この時、欧米4カ国は内乱には関知しないとの協定を結び、厳正中立と密貿易の禁止を幕府と約束していましたが、長州征討には不参加を表明した薩摩藩なら武器を購入することが出来ます。

長州藩の木戸孝允がグラバー商会に相談すると、薩摩藩が武器を購入し長州藩に回すことを申し出て土佐藩の坂本龍馬が仲介し長州藩の武器入手が実現したのです。

徳川幕府は軍事援助をフランスに頼り、武器調達もフランスを頼りました。
銅製施条カノン砲16門の製造をロッシュに依頼すると、この大砲は長州征討の直前に届きました。

かくして中途半端な「第1次長州征討」のケリをつけるべく始まった「第2次長州征討」ですが、
たった2ヶ月で長州藩の勝利に終わります。

勝因は、新兵器の威力、大村益次郎の戦術、よく訓練された軍の士気の高さなどが指摘されています。

対する幕府軍は、いちおう頭数は揃えたものの、強い会津藩も薩摩藩もいません。
士気はめちゃめちゃ低いし、「一丸」となっていないですから。
開戦はしたものの連敗を喫していた幕府軍。

さらに、もうひとつの敗北の理由。

開戦1ヶ月後に将軍家茂が大阪城で病死

これを聞いて慶喜は幕府の拠点である小倉城が落ちるとあっさりと出陣を中止します。

え? ええ〜〜? やめちゃうの?

朝廷上層部や会津藩の怒りや猛反対を押し切り
休戦交渉に勝海舟を派遣して交戦を中止、休戦協定を締結するのです。

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最後の将軍徳川慶喜 、でもまだ薩摩は倒幕じゃない。

将軍家茂の死と幕府軍の敗北は、もはや徳川幕府が風前の灯であることを世間に知らしめ、
反幕府勢力は幕府壊滅をねらって動き出します。

朝廷では岩倉具視が支持勢力を広げ、徐々に頭角を現すことになります。

将軍職を固辞し続けていた徳川慶喜は、長州征討を終えた翌年(1867年)1月、孝明天皇に信任されようやく征夷大将軍の座につきますが、なんとその20日後に孝明帝は崩御します。

孝明帝の死は痘瘡(とうそう)による病死とされていますが、毒殺説もあり岩倉具視がかかわっていたとされる説があります。

2月、睦仁(むつひと)親王が満14歳で践祚(せんそ、天子の位に就くこと)し、新天皇が誕生します。

徳川幕府に見切りをつけた薩摩藩と、幕府と完全に敵対した長州藩の反幕府活動はさらに加熱しますが、でもまだ「倒幕」じゃないのです。

新しい慶喜政権は次々と新しい政策に打って出ます。

確かに孝明天皇という強力な後ろ盾を失ったことは大きいけれど、反面、何がなんでも攘夷!という足かせがなくなったことのほうが慶喜にとっては大きかったと見えます。

フランス公使ロッシュの助言により外交に力を入れる他、人事を固め、軍備の増強、国際法の研究や行政の近代化を進めます。

欧米は、幕府権力の強化を図る慶喜について「新しい国王の誕生だ」と歓迎します。

木戸孝允も「じつに家康の再生を見るようである」と、その剛腕ぶりを警戒し、岩倉具視は「軽視すべからざる強敵」と受け止めていました。

慶喜はまた、会津藩・桑名藩と連携し、朝廷との密接な連携をとっていました。
長らく見送られてきた兵庫港開港も朝廷を説き伏せ勅許を勝ち取ります。

一方の薩摩藩や長州藩、一部の公卿などもまた、朝廷への工作を強めていました。

それでも慶喜の政治力のほうが1枚上手でした。

結局、慶喜が将軍になって以来、
薩摩藩は自分たちも政治参加した上での公武合体をイメージしていたのに諸公会議も四侯会議も慶喜主導となっているし、

岩倉具視も未だに朝廷内で主導権を得られていないし。

民衆は強烈なインフレに苦しみ、世直しを訴えて熱狂的に踊る ”ええじゃないか” が京都を中心に各所で流行しました。


このままではいかん!!
薩摩の西郷、大久保は鬼気迫る思いです。

大政奉還と王政復古の大号令

薩長が武力倒幕に動きそうだと察知した慶喜は、先手を打ちます。

「大政奉還」。1867年11月のことです。

無益な内乱を避けること、このままの将軍職では政治の舵取りは出来ないことを考え、政権を朝廷に返上したのです。

とはいえ朝廷に政治ができるはずもなく、政治はこのまま私がコマとなって働きますので、というわけです。

薩摩と長州は驚きました。
ほとんど同時期に岩倉具視らとともに画策して「倒幕の密勅」を得ていたからです。

徳川幕府主導の独裁政治を一新するために慶喜を将軍職から諸藩と同位置に引きずり降ろそうという作戦です。

その前に大政奉還とは。

しかしこれであきらめるわけにはいきません。
状況は、大政奉還と言いながら政権を返上されてもなすすべのない朝廷が相変わらず慶喜に一切を任せているわけですから、次の一手に出ます。

「倒幕の密勅」はとりあえず一旦引っ込め、薩長両藩も土佐藩を巻き込み態勢立て直しを図ります。

岩倉は倒幕派の公家と薩摩、芸州、土佐、越前、尾張の5藩と協調し、「王政復古の大号令」を天皇に上奏します。

幼い天皇はうんと言うしかありません。

「王政復古の大号令」は、慶喜の大政奉還を受け入れた上で、旧来の組織を一新し天皇統治の原点に戻り「新政府」を樹立する、というものでした。

これをもって幕藩制は壊滅し、慶喜は内大臣の辞職と領地・領民の返還という「辞官納地」を命ぜられます。
徳川の領地も官位も剥奪し、タダの藩主の一人にすぎない、とするということです。

1868年1月3日。 新政府樹立。
900年以上続いた摂関制度や、260年余に渡る江戸幕府が、これで完全に解体されることになったのです。

こうなっては徳川の将兵は黙っておれません。
特に会津藩と桑名藩の心情はいかばかりでしょうか。

ところが慶喜は皆を制止し、とりあえず様子を見ようと静観の構えを取るのです。

いよいよ政局の中央に躍り出た薩摩藩士と長州藩「正義派」藩士。

でもまだ「倒幕」じゃありません!

え?どういうことかって? それは・・・次回。

ところで土佐藩の坂本龍馬は慶喜の大政奉還に感心し、慶喜を見直して、慶喜を含めた新政府のために「新政府毛領案」をまとめますが、直後に暗殺されます。
京都守護職配下の見廻組(みまわりぐみ)の仕業とされていますが、どうでしょう。

せっかく燃え上がった内乱の火を消すようなマネをして、とか、知りすぎた男、という理由なら、
グラバー、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイルド、薩摩藩、長州藩、土佐藩の後藤象二郎や岩崎弥太郎にも暗殺の動機はある、とする説も多いのです。

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