【明治維新】7.鳥羽・伏見の戦いで薩長は完全に「倒幕」へ

錦の御旗
錦の御旗

大政奉還をした徳川慶喜はむしろ王政復古の音頭取りをし主導権を握りました。
なんだかんだ言っても結局変化を嫌い現状維持を良しとし、既得権益に甘んじる人が多いのが世の常です。

西郷隆盛、大久保利通は焦ります。
徳川主導では何も変わらない。
世の中を一気に変えるにはクーデターしかないとして決行したのですが・・・。

日本史上最後の将軍となった慶喜は内乱を避けるため「大政奉還」を行い、 岩倉具視が画策した「王政復古の大号令」によって強引に新政府が樹立され...
戊辰戦争150年。 今年、平成30年は「明治維新150年」として記念事業が各地で行われていますが 東北の人々、とくに「会津藩」の地域の人...

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王政復古クーデター計画

「大政奉還」によって政権は朝廷に返上され、慶喜は征夷大将軍を辞職しました。

徳川幕府の衰退が明白になり自ら大政奉還をした慶喜の評価は一気に上昇し、諸外国からも大英断を歓迎されました。

こうなると薩長、岩倉は「倒幕の密勅」を企ててまで失脚させたかった慶喜を打倒する理由がなくなり、これ以上旧幕府や慶喜批判を続ければ逆にこちらの立場が危うくなります。

政権が朝廷に移ったとはいえ相変わらず政治の主導権は慶喜にあり、なんとかしないとこのままでは何も変わらない。

西郷隆盛、大久保利通はあせります。

しかし政治が王政に復帰したのは確かなこと。
すぐさま西郷、大久保、小松帯刀、土佐藩の後藤象二郎などが走り回り、王政復古後の新体制作りに乗り出します。
反幕側の主導権は薩摩にありました。

慶喜も、大政奉還の目的は「朝廷を国家の中心に位置づけ皆が協力しあって皇国を守り、海外万国と並立する」ことに尽きると言い、王政復古、長州藩の赦免に同意します。

慶喜はむしろ王政復古の音頭取りをしたので、多くの藩が一気に王政復古支持に流れました。
慶喜は慶喜で、大政奉還しても政治の主導権はオレ、オレが中心になって新しい政権を作る!と思っていますから、この流れはイイ感じです。

対する薩摩藩は、慶喜中心じゃダメだ、それじゃ何にも変わらないんだ!と思っています。

西郷、大久保は限られたメンバーとごく少数の公家で、新体制作り、新政府樹立の計画を進めることにします。

まずは慶喜の官位と徳川の領地を召し上げ、徳川を諸藩主と同等の一大名に引きずり下ろすこと。
そして京都守護職と所司代を免職、幕府を解体し、幕藩制に代わる新しい政治体制を作ること。

世の中の仕組みを変えようというのですからこれは大変なことです。
摂関政治は900年以上も続き、徳川幕府は260年も続いたのです。
人々の意識を変えることは、そう簡単なことではありません。

西郷も大久保も、この「王政復古」はクーデターによってしか成し得ないと考えました。

なんだかんだ言っても結局変化を嫌い現状維持を良しとする人々は多いし、既得権益に甘んじる人が多いのが世の常です。

旧体制のまま平和ボケした日本を、朝廷、幕府、諸侯、民衆に至るまで丸ごと一気に人々の意識を覚醒させ「新国家の建設」の方向に向かわせなくてはなりません。

王政復古に反対する勢力は完全に封じ込め、旧体制や旧来の馴れ合い精神を一気に粉砕するためにはクーデターしかなかったのです。

つまりこの時の「倒幕」の意味合いは、決して「幕府を倒す」のではなく、独裁政治を終わらせ新しい政治体制を作る「改革」だったのです。

それが証拠に、のちにクーデターに参画した藩との連絡事項にも「決して倒幕ではない」とあるし、
また、必ずしも新体制から慶喜を排除しようとするものではありませんでした。

江戸も京都も大騒ぎ

征夷大将軍・徳川慶喜が大政奉還した!

まさかのニュースに江戸はびっくり仰天、大騒ぎです。
老中以下すべての役人が江戸城に集結、大会議が開催されました。

「ただちに兵を挙げ、京都から反幕府派を一掃すべし!」と叫んだのは勘定奉行・小栗上野介。

幕府付きの駐日フランス公使・ロッシュは愕然とし、
「大政を奉還して、日本国の宰相で居つづけることなど出来るはずがない」と思いました。

京都では、独裁と言われるほどに幕府の中でも幅を効かせた「一会桑」がこれで崩壊しました。

会津藩主・松平容保には、主君の決断には逆らえないとはいえ到底納得できません。

表立って反対はしないものの、朝廷には幕府に政治を一任するように働きかけました。
京都では朝廷に直接、江戸では幕府を通して朝廷に建白するように願い出たりしたのです。

そこまでする会津藩には会津藩の事情がありました。

会津藩の人は、死んでも忠義を守るのが掟です。
「会津藩家訓15箇条」に忠実に従えば、絶大な信頼を寄せ守って下さった亡き孝明天皇のご意思に反することは出来ない、徳川のために忠義を尽くし徳川を守らねばならないのです。

また、
長州藩の赦免が成れば、かねてから長州藩が会津藩に厳罰を、と掲げていた問題が再浮上し、新政府に要求するだろうこと、

朝廷に政治は出来ないが、薩長には藩政がせいぜいで、国家の政治に携わった経験がない、幕府には人材も能力もある、

だから今まで通り幕府が政治をするのが良い!

というわけです。

最大の抵抗勢力は会津藩と桑名藩

西郷、大久保、後藤象二郎たちは、「王政復古クーデター」を決行した際に諸藩がどう動くか、綿密に調査しました。

その結果、徳川慶喜本人はむしろ同様の志を持っていると見られたし、諸藩にはそれほど重大な抵抗勢力はなく、多少のことが起きても対処可能、と判断することができました。

ただひとつ、徳川幕府制、旧体制の存続を図ろうとする会津藩と桑名藩は大問題でした。
徳川の親藩であり軍事力もある巨大藩ですし、朝廷とも懇意である両藩です。

西郷・大久保を中心とする反幕派がクーデターという手段にこだわる、もしかしたら一番大きな理由がここにありました。

王政復古クーデター決行後、軍事行動に出るとすれば「会桑」以外になく、この最大の抵抗勢力を叩き潰すことによって他の抵抗勢力すべてを抑えることが出来る。

なおかつ会津藩、桑名藩はそれだけ孤立しているということであり、もはや加勢する藩はありえず、勝算は十分にある、と見ました。

会津藩の動向はすでに周知のことであり、後藤や岩倉も西郷・大久保と同じ見解でした。

ここで重要なのは、会津、桑名の両藩が武力で抵抗してくるならばこの際一気に叩き潰せる、むしろ来い!来てくれ! という思惑が見て取れることです。

クーデターという手段を選んだのは、会津・桑名を挑発し、ぶっ潰す! ためだったのかもしれません。

対立したのは反幕派 VS 旧幕府 ではなく、むしろ 反幕派 VS 会津・桑名。

新政府だって、何もかも破壊してゼロから立ち上げるより幕府そのものや徳川慶喜は「潰す」のではなく、今後はうまく利用するほうが良いはずです。
そのためにも、どうしても会津藩、桑名藩は邪魔だったのでしょう。

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王政復古の大号令!クーデター決行。したけど、あれ??

王政復古クーデターは、1867年10月15日の大政奉還からわずか2ヶ月たらずの1867年12月9日に決行されました。

会津藩、桑名藩の武力抵抗に対する軍備を整えた上で、「王政復古の大号令」が発せられます。

その日、御所を警備する会津藩を押しのけ、薩摩、土佐、尾張、芸州、越前の五藩が警備を固めた中、

  • 摂関制の廃止、幕府制の廃止
  • 「総裁」「議定」「参与」の新しい三職を置く「中央政府」の発足

が宣言されたのです。

これには慶喜も幕府側も驚き、怒りました。

その日の夕方から行われた小御所会議は荒れに荒れたようですが、怒りの対象は新興勢力がクーデターを起こしたことであり、新体制を作ること自体はもう仕方がない、というより大政奉還をした時からそれは当然の成り行きであったことでしょう。

徳川幕府はもうダメだというのは共通認識でも、いきなり野党がしゃしゃり出てきて「今からこうします!」と言ったって、与党側にしてみれば、お前ら偉そうに何言ってんの? ってところでしょう。

特に、官位はもちろん、徳川の領地をすべて取り上げるとする「辞官納地」(官位返上と領地返上)はもめました。

「辞官納地」は慶喜自身も大政奉還の時に想定したことではあったはずです。
ですが、大政奉還を決断し実行した慶喜に対して厳しすぎる内容の辞官納地には、幕府側だけでなくクーデターに参加した諸藩ですら、反対が多かったのです。

それにしてもこの時はまだ西郷も大久保もタダの下級武士です。

この「小御所会議」にタダの下級武士である西郷や大久保が出席出来たのでしょうか?
クーデター首謀者としたら出席していないとおかしい気もしますが、出席したとしても末席に位置するのが精一杯、なのではないでしょうか?

このあと、クーデターを起こした反幕派と旧幕府は、もちろんことごとく対立します。

慶喜は静観の構えながら善後策を練ります。

静観できないのが「会桑」。

守護職屋敷で待機する容保は怒りに震え、会津藩と桑名藩は想定通り(?)即時開戦の勢い、
守護職屋敷付近では会津藩兵と薩摩藩兵との殺傷事件も起きます。

反幕派は両藩の逆襲を今か今かと待ち構えるように神経を尖らせています。

慶喜は両藩をなだめ、両藩を連れて二条城を出て大阪城へ移ります。
「しばらく大阪に滞在し、両藩の気持ちが落ち着いたらそれぞれを国元に帰します」ということで両藩の暴発を未然に防いだのです。

これがことのほか奏効し、慶喜人気は更に上昇、反幕派の公家代表・岩倉具視は慶喜の議定職就任を提案し、薩摩側も了承するのです。

これを皮切りに、なんと、慶喜の処遇その他諸々の案件が慶喜支持の旧幕府の面々の意向が優先されるように流れていきます。

あれ??
クーデター首謀者よりも、幕府や慶喜が「主流」のようになって来ました。

なんだかんだいっても巨大徳川の将軍様・慶喜と、260年続いた与党は強い!! ということでしょうか。

薩摩は完全に「倒幕」にシフト、鳥羽伏見の戦いで勝利

焦ったのは反幕派、特に薩摩の西郷、大久保は窮地に立たされます。
あれほど周到に、クーデターまで起こして、政権交代はもう目前だったはず、なのに!
気付けば脇に追いやられている感じです。
なんということ!
心中お察ししますね。

西郷、大久保が本当に恐れたのは、慶喜の議定職就任そのものでなく、その後におこるであろう事態、
つまり慶喜が議定職就任後にやってのけるであろう”慶喜政権の基盤拡大”です。

このままなし崩し的に進めば、結局旧態依然とした体制に逆戻りしてしまうことを最も恐れたのです。

ここに至って西郷、大久保は「打倒徳川」をはっきりと意識し、岩倉にもそれを訴えます。
徳川慶喜とその一派、徳川支持に傾く諸藩を、今ここで討たねばクーデターまで起こした改革が水の泡・・・。

新政府 VS 旧幕府。

「倒幕」が薩長の明確な方針になります。

飛んで火に入る冬の虫

そんな時、江戸市中の浪人どもが暴行の限りを尽くし、薩摩藩浪人の仕業と見た庄内藩士が薩摩藩邸を焼き打ちする事件が勃発。
1867年12月25日のことです。

慶喜が必死におさえていた旧幕府の将兵、会津藩兵がこれに乗じ、薩摩を討伐せよという大事件に発展します。

大阪にいた慶喜は、老中板倉 勝静に聞きます。

「徳川の譜代、旗本の中に、西郷隆盛や大久保利通に匹敵する有能な奴はいるのか?」

板倉が答えます。

「いいえ、いません・・・。」

本来は血なまぐさい争いごとが大嫌いな慶喜でしたが、もう倒幕派の暴力と、対抗してエスカレートする旧幕府側の武士たちを止めることはできません。

かといって薩長相手に戦をしても、勝利に導く武将はいない。

されど、もう戦の他にコトを収める手立てもない。

慶喜もいよいよ抑えきれず「討薩の表」(薩摩の「奸臣(かんしん、主君に対して悪事をたくらむ家臣)どもを「誅戮(ちゅうりく、罪をただして殺害)」しなければならないとする文書)を発します。

集結した旧幕府軍は会津・桑名藩士も合わせ1万5千、「討薩の表」を携え、とにかく上洛しようと京都御所へ向けて出発します。

反幕派にとっては絶好のチャンス到来
西郷は「これで倒幕の名目がたちもうした」と言ったといわれます。

何がなんでも潰したい、「会桑」と慶喜と旧幕府。

ここで一気に潰す!!

薩長軍は5千程度でしたが、西洋の最新兵器は豊富に取り揃えていました。

鳥羽・伏見の戦いと「錦の御旗」

1868年1月3日、旧幕府軍が鳥羽街道の関門にさしかかると薩摩藩兵が封鎖しており、通行を求めると京都から許可が出るまで待つようにと言います。

通せ通さぬの押し問答のうちに薩摩藩兵が先制攻撃を仕掛けました。

いきなり戦闘開始とは思っていなかった旧幕府軍が奇襲を受けた形で戦闘になだれ込みます。

一方、伏見街道でも通行をめぐって問答しており、鳥羽方面から聞こえた銃声が合図になりました。

緒戦から苦戦を強いられた旧幕府軍でした。

2日目、新政府軍営に「錦旗(きんき、天皇から渡された錦の御旗)」が掲げられ

この瞬間から新政府軍が「官軍」旧幕府軍は「賊軍」となったのです。

え?

今の今まで日本を担ってきた幕府、御所を守り、朝廷を守ってきたこっちが、ぞくぐん??

え?
ええ〜〜〜〜??

そりゃもうびっくり、青天の霹靂とはこのことです。

大阪城にいた慶喜は徹底抗戦だと言って将兵に檄を飛ばしながらも、開戦から4日目の夜、会津藩主・松平容保 、桑名藩主・松平定敬 、老中・板倉勝静らを連れ、船で江戸に向かってしまいます。

ちょうどこの時、オランダから帰国した旧幕府の幕臣・榎本武揚が戦況劣勢を知り、開陽丸で大阪に入り、大阪城に向かっていました。
入れ違いに慶喜はこの開陽丸で江戸に帰ったのです。

榎本武揚が大阪城に着くとすでに主君慶喜はおらず愕然とします。
かわいそうに・・・。

こうして鳥羽・伏見の戦いは旧幕府軍がなんと賊軍となって惨敗。

旧幕府軍の準備不足、薩摩藩の不意打ちによる指揮系統の乱れ、錦旗によって淀藩、津藩が寝返ったことなどが敗因とされます。

会津藩兵は800人のうち500人が討ち死にしたそうですが、この時の会津藩の戦いぶりは後世に語り継がれるものとなりました。

朝敵となることを恐れ、家臣を残し敵前逃亡した慶喜は後々まで汚名を残しますが、慶喜が恐れたのはこれ以上戦うことで様々な問題を引き起こすことだったとする説が真実ではないかと思います。

  • 「朝敵」=「逆賊」となった旧幕府軍の敗北は決定的、無駄に命を落とすことになる
  • 「官軍」「賊軍」の、いわば日本が2つに分かれた内戦が続けば欧米列強の干渉や侵略を招く

絶対的な勤王である慶喜は、確かに錦旗に歯向かうことは絶対に出来なかったし、戦争では何も解決しないことを痛切に思ったのではないでしょうか。

でもこの人の悪いところは、なんの根回しもアナウンスもせず決断したことをいきなり実行してしまうところです。
だから誤解されるし、反感を買ってしまうんですよね。
ものすごく頭の良い人で、先の先まで考えて行動するけど皆はついて来れない、そんな感じがします。

徳川幕府は滅亡したけど「江戸時代」はまだ終わってない!

慶喜は謝罪と恭順の意を表明し、上野の寛永寺に籠り、自ら謹慎生活に入りました。

容保は慶喜に会い藩主を養子の喜徳(のぶのり)に譲ることを申し出、朝廷に謝罪嘆願書を提出します。
徳川宗家が謝罪するなら会津藩も謝罪するしかありません。

江戸には、事態を聞いた会津藩士が会津若松から続々と集まっていました。
会津藩の面々は、憤懣やるかたなし、卑怯者慶喜を見限り、憎みました。

容保は将兵に告げずに江戸に戻ったことを「恥ずべきこと」と皆に詫び、必ず会津を守ると誓いました。

家臣たちはやり場のない怒り、悲しみに号泣したといいます。

鳥羽・伏見の戦いで敗れた会津藩は、だからもはや幕府の再興など微塵も考えていません。
ただ、断じて「逆賊」ではない、会津の正義と忠義、無実を世に訴え、後世に審判を仰ぐ他はないと思い、そのために残された道は徹底抗戦しかなかったのでした。

その後、容保の出した謝罪嘆願書に対する返答はありません。
薩長の最新兵器に対抗できずに惨敗を喫した容保は会津に帰り、あらためて軍備の増強と近代化に力を入れます。

江戸城無血開城

慶喜が「敵前逃亡」し、旧幕府軍が「賊軍」、新政府軍が「官軍」となったことで近畿以西の藩はほとんどが「新政府」支持になりました。

旧幕府は抗戦派と恭順派に分かれています。

薩長率いる新政府は、これで西郷、大久保らが一気にトップに躍り出て、朝敵・慶喜と会津の追討令を下します。

新政府軍はあちこちで旧幕府に味方する者、アンチ新政府の者達の反発を制圧しながら江戸へと進みます。

江戸では旧幕府の最高実力者・勝海舟と慶喜の警護にあたる山岡鉄舟が慶喜救済のために動きます。

1868年3月6日、新政府軍の先鋒が多摩川の岸まで迫っていました。
鉄舟は敵陣に乗り込み、東征大総督府参謀の西郷との面会を申し入れます。

3月9日に鉄舟・西郷会談が実現、3月13日には江戸高輪の薩摩藩邸で西郷・勝海舟のトップ会談が実現します。

これによって慶喜は斬首を免れ、家名存続と水戸での謹慎が認められ、江戸城明け渡し、武器、艦船の引き渡しが決まります。

西郷が3月15日に決行を指示していた江戸城総攻撃は寸前で中止されました。

4月11日には江戸城を明け渡し、慶喜は水戸へ向かいます。
同じ日、武器と艦船の引き渡しに抵抗した旧幕府海軍副総裁の榎本武揚は、艦船ともども房州(千葉県)館山方面へ逃れます。

朝敵・会津を追討せよ

勝海舟、山岡鉄舟の働きで、慶喜は命拾いしましたが、薩長の会津追討は勢いを増すばかりでした。

会津藩は、鳥羽・伏見の戦いで先に発砲したことで朝敵とされ、庄内藩は江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたとして朝敵とされました。

しかし鳥羽伏見で先に発砲したのは新政府軍、薩摩藩邸焼き討ちも、薩摩藩が先に旧幕府側を挑発したから、という疑念が強く残ります。

それに、慶喜は完全に恭順し、もはや歯向かう意図などありません。

そもそも、王政復古の時、長州藩には寛大な処置がされたではないか?

会津追討は、傍から冷静に眺めている諸藩、特に関東以北の藩には受け入れがたいものがあります。

第一、これ以上内戦を広げて何になるというのか?

それこそ諸外国は内戦につけ込み、どんな動きに出るか計り知れず、これ以上日本の恥を晒し外国の干渉を招くことは避けるべき。

新政府の中でも会津追討に反対する意見は多く、会津追討は薩長の私怨だと非難されますが、薩長の強硬姿勢は変わりません。

西郷は

「今、会津を討たねば未来に禍根を残す」

と言ったそうです。

対する会津藩もまたあくまでも戦う決意、それは「会津の正義のため」ただ一点なのです。

「武力による倒幕」をはっきり意識した薩長が「鳥羽・伏見の戦い」を引き起こし、会津の正義を貫く信念が戊辰戦争へと向かわせました。

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