戊辰戦争とは何か、なぜ起きた?なぜ会津の悲劇なのか?-明治維新10-

戊辰戦争の時の薩摩藩士(フェリーチェ・ベアト撮影)
戊辰戦争の時の薩摩藩士(フェリーチェ・ベアト撮影)

鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、幕末から明治にかけての数多くの戦争の総称ですが、新政府軍の敵、徳川と会津を征伐する戦争にほかなりません。

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「戊辰戦争」って何? なぜ起きた?

「戊辰戦争」は、大きく4つに分けられると思います。

  1. 鳥羽・伏見の戦い 1868年1月3日〜6日 「新政府軍」と「旧幕府軍」の戦い
  2. 上野戦争 1868年4月23日 「新政府軍」と「旧幕府軍」の戦い
  3. 東北戦争 1868年3月〜9月24日 「新政府軍」と「奥羽列藩同盟」(特に会津藩)の戦い
  4. 函館戦争 1868年8月〜1869年5月18日 「新政府軍」と「榎本政権」の戦い

鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は「錦の御旗」を賜って「官軍」となり、旧幕府軍は「賊軍」となってしまいます。

「朝敵」となることを恐れた徳川慶喜は、なんと側近を連れて江戸へ「敵前逃亡」。
総大将を失った旧幕府軍は完敗します。

即座に朝廷から「東征」の号令(東方の敵を征伐せよ)が下り、西郷は東征大総督府の下参謀に任ぜられます。

下っ端の武士ですからいきなりトップにはなれず「下参謀」ですが、事実上は「東征」の指揮官、それも常に現場(戦場)で指揮をしたいタイプの指揮官です。

新政府は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に味方した藩を処罰し、以後新政府に楯突くものは「朝敵」とみなす、としました。

朝敵とされた藩も早々に降伏と協力を申し出たので、3月には新政府が完全に西日本を支配しました。

西日本の各藩に抵抗がなかったかといえば、ないわけではないけれど大した抵抗ではなかった、というか、新政府に付くのか旧幕府に付くのか、究極の二者択一、旧幕府に付けば「朝敵」です。
もう誰も地に落ちた幕府に付く者はいません。
本心はイヤでも、生き延びるためには強い方に付くのが道理というものです。

新政府にとって、というより薩長にとって一番の問題は、「徳川」と「会津」。

西郷は徳川幕府と会津藩を完膚なきまでに叩きのめさなければ新しい日本を造ることは出来ないと思っています。

その前に江戸。

江戸の旧幕府側には当然納得できない人たちがたくさんいて、その抵抗はとても強いものでした。

そりゃあ、「大政奉還」も「王政復古」も「鳥羽伏見の戦い」も舞台は京都ですから幕府のあった江戸以北の人々にとっては状況がわからないまま世の中がひっくり返ったのではないでしょうか。
江戸では薩摩藩の浪人どもが強盗・窃盗・放火・殺人のやりたい放題で怒り心頭でしたし。

ということで
1868年1月、鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、抵抗勢力をねじ伏せながら江戸へ向かい、どんどん北上し、最後は1869年5月、蝦夷(北海道)を制圧してようやく終わるのです。

元号は戊辰戦争中の1868年9月に「明治」と改元され、1868年1月1日(旧暦)に遡って適用されたので戊辰戦争は明治元年1月から明治2年5月ということになります。

「江戸時代」「徳川幕府」は鳥羽・伏見の戦いで崩壊しました。
「明治」の元号が適用されたあとから見れば、
幕府崩壊の瞬間に時代も明治に変わったかのようですが、実際には「江戸時代」が終わるまでには多くの人々の計り知れないほどの涙と血を流して、「明治」に変わったのです。

まずは関東を制圧

旧幕府の抵抗

江戸城は無血開城したとはいえ、旧幕府の面々は恭順派ばかりではありません。

江戸城明け渡し、武器・艦船の引き渡しに反発した旧幕府の将兵は大量に江戸を脱出しました。

旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は、開陽丸など8隻を連ねて千葉方面へ逃れ、歩兵奉行・大鳥圭介は歩兵部隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて市川を抜け、徳川政権の聖地日光へ向かいます。

「市川・船橋戦争」は1868年4月3日。
旧幕臣・江原鋳三郎が率いる撒兵隊(さっぺいたい)と新政府軍の戦い。

大鳥を追った新政府軍は市川、行徳、鎌ヶ谷に布陣し、市川で撒兵隊と衝突、撒兵隊は八幡から先制攻撃を仕掛けますが戦況不利となって船橋に逃れます。

鎌ヶ谷での撒兵隊の別働隊も船橋に逃れ、最後の抵抗を試みますが敗れます。
船橋大神宮は砲弾を受けて炎上、新政府が船橋宿に放った火と強風が重なり、船橋の3村は大火災となりますが、幸い翌日の雨で鎮火、船橋は完全に新政府軍が制圧しました。

「宇都宮城の戦い」は1868年4月19日、23日。
日光へ向かう大鳥圭介の軍隊と土方歳三率いる別動隊が、東山道総督府軍を中心とする新政府軍と宇都宮城をめぐって衝突した戦い。

宇都宮城主・戸田忠友は慶喜助命嘆願のため上洛途中に捕らえられ、抑留されていて宇都宮城にはいませんでした。

宇都宮藩は新政府に恭順しています。

宇都宮藩士は新政府軍とともに応戦、一旦は旧幕府軍が宇都宮城を陥落しますが新政府軍に奪還され、多くの犠牲者を出した旧幕府軍は日光へ向けて退却しました。

戸田忠友が許されて帰還した時、宇都宮城は2度の戦いでボロボロでしたが、忠友は軍制改革を進め、宇都宮城は会津戦争や北関東政情安定化のための政治・軍事拠点となり、明治期には東京鎮台(その後第1師団)第四分営(その後歩兵第2連隊)の本営が置かれることになります。

「上野戦争」は1868年5月15日。
旧幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎など徹底抗戦の強硬派は彰義隊(しょうぎたい)を結成、上野の寛永寺に集結します。

恭順派の旧幕臣は、新政府に睨まれぬよう、「江戸の警備隊」としていましたが、新政府側は警戒しました。

新政府軍は、これまた過激な長州藩・大村益次郎が指揮し、黒門に配置した薩摩兵すら危険な布陣を敷いて宣戦布告します。

新政府軍は新式のスナイドル銃やアームストロング砲、四斤山砲をバンバン打ち、夕方には終結、たった1日で彰義隊は全滅しました。

生き残った彰義隊兵士は、榎本武揚の艦隊に乗船したり、いわき方面、会津方面へ落ち延びました。

大村益次郎は長州藩の医師、西洋学者、軍事学者であり、長州征討でもその手腕を発揮し長州を勝利させた戦争のベテランで、上の戦争は「半日でカタをつける」の言葉通りあっという間に決しました。

もっとも激戦となった黒門を担当した西郷も大村の戦略に沿って大活躍、勝利の立役者となりました。

関東を制圧した西郷は一旦京都へ戻り、会津藩や東北諸藩の処遇を協議することになります。

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