戊辰戦争とは何か、なぜ起きた?なぜ会津の悲劇なのか?-明治維新8-

戊辰戦争の時の薩摩藩士(フェリーチェ・ベアト撮影)
戊辰戦争の時の薩摩藩士(フェリーチェ・ベアト撮影)

戊辰戦争150年。
今年、平成30年は「明治維新150年」として記念事業が各地で行われていますが
東北の人々、とくに「会津藩」の地域の人々には「維新」よりも「戊辰150年」なのだそうです。

鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、幕末から明治にかけての数多くの戦争の総称ですが
「会津戦争」を含む「東北戦争」を知れば、戊辰戦争とは何だったか、なぜ起きたのかがわかります。
これ以降、第二次世界大戦まで、近代日本の戦争は、「戊辰戦争」に端緒があるのかもしれません。

鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争の始まりとなった戦争で、薩摩・長州が倒幕のために仕掛けました。 西郷たちがクーデターまで起こしたのに徳川慶喜...
戊辰戦争で圧勝した明治政府は「版籍奉還」「廃藩置県」を断行し、近代国家日本の第一歩を踏み出しました。 「藩」を廃止し「県」にして「政府」が...

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「戊辰戦争」って何? なぜ起きた?

「戊辰戦争」は、大きく4つに分けられると思います。

  1. 鳥羽・伏見の戦い 1868年1月3日〜6日 「新政府軍」と「旧幕府軍」の戦い
  2. 上野戦争 1868年4月23日 「新政府軍」と「旧幕府軍」の戦い
  3. 東北戦争 1868年3月〜9月24日 「新政府軍」と「奥羽列藩同盟」(特に会津藩)の戦い
  4. 函館戦争 1868年8月〜1869年5月18日 「新政府軍」と「榎本政権」の戦い

鳥羽・伏見の戦いで新政府軍は「錦の御旗」を賜って「官軍」となり、旧幕府軍は「賊軍」となってしまいます。

「朝敵」となることを恐れた徳川慶喜は、なんと側近を連れて江戸へ「敵前逃亡」。
総大将を失った旧幕府軍は完敗します。

即座に朝廷から「慶喜追討」の号令が下り、新政府軍は江戸を目指します。

新政府は鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍に味方した藩を処罰し、以後新政府に楯突くものは「朝敵」とみなす、としました。

朝敵とされた藩も早々に降伏と協力を申し出たので、3月には新政府が完全に西日本を支配しました。

西日本の各藩に抵抗がなかったかといえば、ないわけではないけれど大した抵抗ではなかった、
というか、新政府に付くのか旧幕府に付くのか、究極の二者択一、旧幕府に付けば「朝敵」です。

地理的に薩長に近く、幕府のある江戸よりは京都御所が近く、海外貿易が始まってからの強烈なインフレや治安の乱れといった世情不安から、国民感情は「攘夷」であり、一揆もたくさん起こっていました。

西日本の民衆の多くは、外国船を襲撃したりして「攘夷」を実行してくれた薩長を支持し、長州藩を「朝敵」の憂き目に合わせた京都守護職の会津藩やその手下の新選組を嫌っていました。

その上このたび薩長が「官軍」となった、となれば、もう武士だって地に落ちた幕府に付こうとは思わないでしょう。
強い方に付くのが道理というものです。

ということで
鳥羽・伏見の戦いに端を発した戊辰戦争は、抵抗勢力をねじ伏せながら江戸へ向かい、どんどん北上し、最後は蝦夷(北海道)を制圧してようやく終わるのです。

この戊辰戦争のさなか、新政府と朝廷は「東京遷都」を行います。
「新政府軍」が関東、東北へと北上するに伴って新政府の管轄(統治)する地域が広がり、国内統一を急ぐ必要があったのです。

あちこちで戦争をしながら、

  • 1868年7月17日 江戸を東京と改める
  • 1868年8月27日 「明治天皇」即位式
  • 1868年9月8日 元号を「明治」と改める
  • 1868年10月13日 明治天皇東京到着、江戸城を皇居とし、「東京城」と改める
  • 1868年12月〜1869年2月 明治天皇は父・孝明天皇の法要のため京都へ、
    この間に政府機関を東京へ
  • 1869年3月 事実上、東京遷都完了

という具合です。

なお、元号「明治」は、1868年1月1日(旧暦)に遡って適用されました。

「江戸(徳川)幕府」は鳥羽・伏見の戦いで崩壊しました。
「明治」の元号が適用されたあとから見れば、
幕府崩壊の瞬間に時代も明治に変わったかのようですが、実際には「江戸時代」が終わるまでには多くの人々の計り知れないほどの涙と血を流して、「明治」は成ったのです。

慶喜を討て! ーまずは関東制圧ー 

江戸城総攻撃、待ったをかけた勝海舟とイギリス。

鳥羽・伏見の終戦後、新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍しました。

東征大総督府参謀西郷隆盛は「江戸城総攻撃」を3月15日に設定しました。
新政府軍が多摩川まで進んだ時、旧幕府陸軍総裁勝海舟は幕臣・山岡鉄舟を差し向けました。

江戸の薩摩藩邸で西郷・勝会談が実現、3月13日、慶喜の斬首は免れ水戸で謹慎、徳川の家名存続と江戸城明け渡し、武器・艦船の引き渡しが決まりました。

西郷、大久保はこれ以上慶喜を追い詰めないほうが得策と判断し、江戸城総攻撃は寸前で中止となり、戦争は回避されたのです。(江戸城無血開城)

この当時イギリス、アメリカ、フランス、プロイセン、オランダの5か国の軍艦が横浜港に集結していました。

江戸で戦争が起きればどんなとばっちりを受けるかわかりませんので、不測の事態に備えていたのです。

パークスは新政府の使者に、

「恭順の意を表して謹慎している相手に戦争を仕掛け、慶喜を死に陥れる道理はない。」

「戦争をするならば、居留地をもつ外国の領事に通知がなければならない。それが一つもない。
仕方がないので、我が海軍兵を上陸させている。今日、貴国に政府はない」

「慶喜が亡命を望むなら、亡命を受け入れるのが万国公法(国際法)」

だと告げます。

諸外国にしてみれば、幕府があったことで日本の中で一番開けていてインフラが整っている江戸は自分たちの拠点を置く大事な地域だったので、江戸を破壊されては困ります。

「国際法に違反する戦争はしてはならない!」

と言われ、「国際法」を知らなかった西郷はびっくり、
江戸で戦火が上がれば外国が介入してくる危険もあります。

新政府として江戸城総攻撃を中止せざるを得ない事情も発生していたのです。

勝の提案を呑んだとしても、パークスがそう言うから仕方ないと言い訳ができる、という計算もあったようです。

旧幕府側の抵抗

江戸城は無血開城したとはいえ、旧幕府の面々は恭順派ばかりではありません。

江戸城明け渡し、武器・艦船の引き渡しに反発した旧幕府の将兵は大量に江戸を脱出しました。

旧幕府海軍副総裁・榎本武揚は、開陽丸など8隻を連ねて千葉方面へ逃れ、歩兵奉行・大鳥圭介は歩兵部隊、新撰組など総勢2,000人の軍隊を引き連れて市川を抜け、徳川政権の聖地日光へ向かいます。

「市川・船橋戦争」は1868年4月3日。
旧幕臣・江原鋳三郎が率いる撒兵隊(さっぺいたい)と新政府軍の戦い。

大鳥を追った新政府軍は市川、行徳、鎌ヶ谷に布陣し、市川で撒兵隊と衝突、撒兵隊は八幡から先制攻撃を仕掛けますが戦況不利となって船橋に逃れます。

鎌ヶ谷での撒兵隊の別働隊も船橋に逃れ、最後の抵抗を試みますが敗れます。
船橋大神宮は砲弾を受けて炎上、新政府が船橋宿に放った火と強風が重なり、船橋の3村は大火災となりますが、幸い翌日の雨で鎮火、船橋は完全に新政府軍が制圧しました。

「宇都宮城の戦い」は1868年4月19日、23日。
日光へ向かう大鳥圭介の軍隊と土方歳三率いる別動隊が、東山道総督府軍を中心とする新政府軍と宇都宮城をめぐって衝突した戦い。

宇都宮城主・戸田忠友は慶喜助命嘆願のため上洛途中に捕らえられ、抑留されていて宇都宮城にはいませんでした。

宇都宮藩は新政府に恭順しています。

宇都宮藩士は新政府軍とともに応戦、一旦は旧幕府軍が宇都宮城を陥落しますが新政府軍に奪還され、多くの犠牲者を出した旧幕府軍は日光へ向けて退却しました。

戸田忠友が許されて帰還した時、宇都宮城は2度の戦いでボロボロでしたが、忠友は軍制改革を進め、宇都宮城は会津戦争や北関東政情安定化のための政治・軍事拠点となり、明治期には東京鎮台(その後第1師団)第四分営(その後歩兵第2連隊)の本営が置かれることになります。

「上野戦争」は1868年5月15日。
旧幕臣や一橋家家臣の渋沢成一郎、天野八郎など徹底抗戦の強硬派は彰義隊(しょうぎたい)を結成、上野の寛永寺に集結します。

恭順派の旧幕臣は、新政府に睨まれぬよう、「江戸の警備隊」としていましたが、新政府側は警戒しました。

新政府軍は、これまた過激な大村益次郎が指揮し、黒門に配置した薩摩兵すら危険な布陣を敷いて宣戦布告します。

新政府軍は新式のスナイドル銃やアームストロング砲、四斤山砲をバンバン打ち、夕方には終結、たった1日で彰義隊は全滅しました。

生き残った彰義隊兵士は、榎本武揚の艦隊に乗船したり、いわき方面、会津方面へ落ち延びました。

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会津を討て! ー奥羽越列藩同盟と会津藩の悲劇ー 

東北戦争の始まり

「新政府」とはいいますが、その実態は薩長であり、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允です。

薩摩藩も長州藩も「藩」として行動し、この人たちを支持していたわけではありません。
むしろ主君である藩主を無視して、下級武士の彼らがどんどん「支配者」になってゆくのを苦々しく思っていました。

薩摩藩も長州藩も、内部は複雑に分裂していたと見られます。

「明治維新」は薩摩藩と長州藩の英雄が革命を起こして成ったものではなく、
「今の徳川幕府の政治ではダメだ」という人々の思いが「変わること」を望み、たまたま西郷、大久保、木戸がそのイニシアチブを取った、ということではないかと思います。

「王政復古の大号令」以前、薩長の望む「新しい政権」は、「公議」「公論」を尊重し、諸外国の脅威に対抗しうる日本を目指す政権だったはずです。

反幕派も、徳川幕府内でも、だから一部の人が独裁する「一会桑」を批判したのでした。

「王政復古の大号令」以後、薩長の思惑が外れて旧幕府勢が盛り返した時、相変わらず「一会桑」が行く手を阻むと感じた時から、薩長の望みは「一会桑」の排除であり、「一会桑排除のための」倒幕へと変化したのです。

「一」は徳川慶喜、江戸城が明け渡しとなり、すでに「謀反」の兆しもありません。

「桑」の桑名藩でさえもほぼ恭順しました。
(桑名藩は、藩としては恭順し藩存続の道を選びましたが元藩主で容保の弟定敬と一部の藩士は会津藩や旧幕府軍と協力して抗戦しました。)

「その他の旧幕府勢」も眼中にありません。

目指すは「会」のみ

なぜそれほどまでに「会」を憎むのか。

長州藩は、かつて京都守護職会津藩に、松平容保に完膚なきまでに叩き潰され「朝敵」にされた怨念があります。

今、薩長が天下を取り新しい時代を作ろうという時、
薩長にとって会津は「旧体制」「旧思想」の権化であり、封建的で一切の改革を否定する保守主義の最たるものでした。
同時に、会津藩の強力な軍事力・戦闘力も看過できませんでした。

「今、会津を討たねば未来に禍根を残す」
と言った西郷は、これを潰してしまわぬことには永遠に夜明けは来ない と思ったでしょうか。

禁門の変以来、会津藩に恨みを持つ長州は、どうしても報復せずにはいられなかった でしょうか。

関東を制圧した新政府軍は猛烈な勢いで北上します。

これ以上内戦を広げて何になるというのか?

それこそ諸外国は内戦につけ込み、どんな動きに出るか計り知れず、これ以上日本の恥を晒し外国の干渉を招くことは避けるべき。

「会津討伐」は薩長の私怨だ。

このような新政府批判が「会津追討反対」の声を拡大する中、新政府軍はいよいよ東北へ迫ります。

新政府は関東を制圧しながら、仙台藩と米沢藩に会津を討てと命令します。

両藩とも会津藩とは友好関係にあります。
特に味方はしないとしても、少なくとも「討つ」理由はひとつもありません

薩長に借りがあるわけでもなく、へりくだる理由もありません。
新政府が成ったと言ったって、直接政権構想の説明や協力要請があったわけでもないのです。

それなのになぜ、頭の上から「会津を討て」と命令されなければならないのかわかりませんでした。

「薩長などわずか二、三の諸藩のよる新政府など認めることはできない」
「薩長は王政復古の名を借り奸計をもって天下をおのれのものにせんとしている。これは日本を危うくするものだ」

というのが仙台藩上層部の見解でした。

しかし拒否すれば朝敵です。

困った仙台藩は会津藩と打ち合わせ、空砲を打って攻め入るフリをしながら、会津藩に恭順するよう勧めますが会津藩は拒否します。

会津藩は、ことはそう簡単には収まらないと思っていました。

それになにより、
恭順したら会津藩は賊軍だと認めることになります。
命がけで朝廷と幕府を守り尽くしてきた会津藩はどう間違っても「朝敵」でもなければ「賊軍」でもないはずです。

ただの一度だって朝廷に弓を引いたことはないのに「朝敵」にされるのはあまりに理不尽です。

仙台、米沢の厚情に感謝しながらも、

会津藩は会津の正義のために「死をもって会津を守る」と明言します。

奥羽越列藩同盟

庄内藩は、江戸の薩摩藩邸を焼き討ちしたことで「朝敵」とされています。
庄内藩にしてみれば仕掛けたのは薩摩であり、濡れ衣だと憤りました。

庄内藩と会津藩の利害は一致しています。
もとより会津と戦争をする気などありません。

庄内藩と会津藩は同盟を結び、その後仙台藩はじめ東北諸藩に声をかけ、「奥羽列藩同盟」が結成されます。

しかし薩長の強大な軍事力の前に、果たして戦えるのか、勝てるのか、時代に逆行しているのではないかと考える人もいます。

実際、各所で始まる戦闘に敗れる部隊も多く、
このままでは多くの犠牲者が出るばかり、会津藩は、断腸の思いで降伏と謝罪を表明することにします。

これがきちんと京都に届いていたら・・・あるいは歴史は変わったのかもしれません。

仙台藩主・伊達慶邦新政府軍・奥羽鎮撫総督九条道孝会津藩の嘆願書を渡すと、九条総督は、部下たちは必ず異論を唱えるだろうが拒絶されれば生きて京都に帰らぬ覚悟、として受理します。

仙台藩主、米沢藩主は奥羽の正義を理解してくれたと喜びます。

が、案の定、九条総督の部下、下参謀世良修造はにべもなく拒絶、嘆願書は新政府首脳へ届くことはありませんでした。

会津は世良を憎みましたが、世良を斬殺したのは仙台藩でした。

東北諸藩は、会津救済もありましたが、何よりなぜこの戦争をしなければならないのか、
なぜ薩長はこれほどまでに強引で高飛車な態度で「命令」するのか、
そうしたことにものすごく嫌悪感をいだき、反発しました。

薩長首脳が東北へ送り込む「総督」や「参謀」は何の権限も持たない、「決定権」のない人や若造ばかりで、平和的解決の道を探ろうにもお話にも何にもならないのです。

それなのに強引に押し入っては「資金を出せ」といい、そこでの生活のすべてをまかなわせ、反抗すれば斬り捨てる、傍若無人で無礼極まりない乱暴狼藉の数々です。

これのどこが「官軍」か。
真の「官軍」のすることではない。

結局、会津藩はそうした「新政府」=薩長 が唱える「倒幕」の生け贄にされたのです。

「奥羽列藩同盟」の盟主は満場一致で仙台藩となり、その後、これに北越6藩が加入し「奥羽越列藩同盟」となります。

「奥羽越列藩同盟」は、「賊のような官軍」に、「薩長の革命政権」でしかない新政府に、断固NO!を言うために戦った、戦うしかなかったのです。

西郷、大久保たちは「東北の独立政権樹立」の芽があることを察知しました。
奥羽越列藩同盟と宿敵会津を徹底的に追い詰め、完膚なきまでに叩きのめしたのが「東北戦争」です。

薩摩・長州・土佐藩を中心とした西日本諸藩からなる新政府軍は欧米列強の大量殺戮兵器にモノを言わせてどんどん、どんどん進軍します。

「官軍」は、進軍しながら暴行、強奪、強姦はあたりまえ、逆らえば女子供も容赦なくその場で殺しました。

「奥羽越列藩同盟」は次々と脱落し、ついに会津藩は孤立し、「会津戦争」になだれ込みます。

会津鶴ケ城まで攻め入られ、約1ヶ月、籠城戦を続けました。
会津城には1日に2,000発の砲弾が浴びせられた日もあったそうです。

「八重の桜」で、綾瀬はるかさん扮する八重が果敢に戦うクライマックスは、この会津城の籠城戦でした。

会津藩は最後まで、新政府軍が辟易するほど強かった!

ですが、これまで。
もうこれ以上は無理、これ以上死んではいけないと観念した容保。
とうとう白旗を掲げ降参します。

崩れそうな会津城

崩れそうな会津城

会津城にはもう武器も食糧もありませんでした。
城下は目も当てられない惨状、血の海でした。
会津藩は生き残った者がいるのが不思議なほどボロボロでした。

それでもなお、薩長は「戦犯」会津藩に冷酷でした。
亡骸を葬ることも許さず、数しれぬ遺体は野犬や野鳥に食いちぎられ、風雨に晒され腐敗しました。

ボロボロになった会津藩は、戦争に負けた犯罪者としてさらに過酷な運命を強いられます。
会津の人々約1万8千人は本州最北の地、下北半島に流されたのです。

この新たな会津藩の「領地」は「斗南藩」と命名されました。
極寒の地で、草の根を食べるしかないような過酷な生活でたくさんの人が命を落としました。

箱館戦争 ー戊辰戦争の終結ー 

江戸の幕臣の家の次男として生まれた榎本武揚は幼い頃から学問を好み、ジョン万次郎の私塾で英語も学びました。
1862年、27歳の時オランダ留学生9人のうちの1人に抜擢され、蒸気軍艦開陽丸(かいようまる)建造監督官を兼ね留学を命ぜられました。

この頃のオランダはヨーロッパの貿易の中心であり、優れた外交と開運力を誇っていました。
榎本はここで近代海軍の最新技術や船舶運用術、砲術、化学、国際法などを学びました。

1867年、帰国してみると幕府の弱体化は著しく、明けて1868年1月、鳥羽・伏見の戦い敗北の知らせを受け、開陽丸で大阪に向かいます。

大阪城に着いたものの主君慶喜の姿はありません。
なんと慶喜が江戸へ逃げ帰ったのはこの時、榎本不在の開陽丸に乗って帰ったのです。

榎本、愕然とします。

失意の中、海軍副総裁の榎本は悩んでいました。
新政府への恭順も拒み、江戸城無血開城とともに艦船引き渡しが決まった時、これを拒否して開陽丸など軍艦8隻とともに千葉方面へ逃走しました。

勝海舟に説得され4隻は新政府へ渡しましたが、開陽丸など主な軍艦4隻を残すことが出来、
勝は薩長との交渉の切り札として重要な榎本の軍艦を品川沖に引き留めていました。

東北戦争が始まると、榎本は留め置かれながらも悩み続けていました。

新政府に恭順するのか、薩長と徹底抗戦し、旧幕府軍の起死回生を図るのか。
「奥羽列藩同盟」と共に抗戦したとしても次々と脱落する藩もある中、勝算はあるのか。

新政府に屈すれば行き場を失う3万人の幕臣はどう生きてゆくのか、
榎本が一番気にかけたのはこのことでした。

一方で奥羽越列藩同盟と会津藩は、榎本の到来を今か今かと待っていました。

海路で物資を運搬していた薩長を軍艦で迎撃する作戦には榎本が不可欠、この海路作戦が最重要なミッションなのです。

榎本は榎本で、考えに考え抜いた末、蝦夷地(北海道)・函館に独立政権を立てようと決めます。

蝦夷地は視察に訪れたことがあってよく知っていました。
かつての留学先、北の小国でありながら貿易でトップに踊りでたオランダで学び、蝦夷地をオランダにしようと思いました。

1868年8月、榎本はようやく開陽丸はじめ8艦からなる艦隊を率いて品川沖を出航、
途中、奥羽越列藩同盟の支援のために仙台に入りますが、このころにはもう同盟とは名ばかり、恭順派の勢いが強くなっていました。

榎本は函館に向かいます。

蝦夷地を本拠とする松前藩は、新政府に恭順を示しながらも「奥羽越列藩同盟」にも参加する日和見策を執っていましたが、結局のところ新政府軍に付いていました。

榎本は松前藩を攻撃、函館・江差を制圧し五稜郭を占拠、ここを本拠地として準備に入ります。

日本を取り巻く諸外国と次々と会談し、国際法に則って独立政権を立てる旨を話しました。
1つの国に国際的に認められる2つの政権が存在する時、外国は中立を保つ、という国際法があります。

諸外国からおおむね好意的な感触を得る中、ついに独立政権「函館政権」(蝦夷共和国)樹立が現実味を帯びてきます。
榎本は刀を鍬に持ち替え、貿易を広げ旧幕臣たちが生きられる地を作り上げたかったのです。

ところが、頼みの開陽丸が嵐で沈没してしまいました。
海上の優位を保ち、国際的にも相当規模の軍備があるからこその独立政権の夢は音をたてて崩れました。

これによって一旦は「事実上の権力」として認めたイギリス、フランスを含め諸外国も日本の政権は「新政府のみ」と表明します。

新政府軍は時が来たとばかりに函館総攻撃に出ると函館市街を制圧、五稜郭に迫ります。

新政府軍から降伏勧告の使者が送られると榎本は拒否の回答とともに、オランダ留学時代から肌身離さず持っていた「万国海律全書」が消失するのを避けるため新政府軍海軍参謀に渡すよう託しました。

降伏を拒否し自刃しようとする榎本を側近が止め、全面降伏、投獄されます。

戊辰戦争は京都から北海道まで北上し、新政府軍勝利でここに終結しました。

薩長の「武力による全国制覇」が成ったのです。

世界の中の日本になるためにとても重要な「万国海律全書」を命がけで守った榎本。

受け取ったのは、後に総理大臣になる黒田清隆。
後に剃髪し榎本の助命を願い出たのも黒田清隆です。

榎本のオランダで得た知識、外交手腕、海洋技術は当時の日本人としては誰も持っていないものでした。
旧幕府にも、新政府にもいません。

特赦で出獄した榎本を、黒田は重用します。
大久保利通は頑なに固辞する榎本を説得し、政界へ招きます。

榎本は数々の功績を残し、1908年、73歳で没します。

一方で非難の声も多くありましたが、それらに対し、榎本は生涯口をつぐんだそうです。

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