【明治維新】9.版籍奉還と廃藩置県と御親兵ーいよいよ中央集権国家へー

皇居正門と石橋、明治20年に木橋から石橋になりました。
皇居正門と石橋、明治20年に木橋から石橋になりました。

1868年=慶応4年・明治元年は激動の年、明治維新のクライマックスです。
1月に鳥羽・伏見を皮切りに始まった戊辰戦争は1年半で北海道まで制圧して終わります。

明治政府は政府軍が北上するのと同時進行でどんどん「改革」を進めます。
全国制覇を果たすと「版籍奉還」「廃藩置県」を断行し、近代国家日本の第一歩を踏み出しました。

戊辰戦争150年。 今年、平成30年は「明治維新150年」として記念事業が各地で行われていますが 東北の人々、とくに「会津藩」の地域の人...
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明治新政府発足と戊辰戦争は同時進行(日付は旧暦)

■1868年(慶応4年)1月3日
「王政復古の大号令」によって維新新政府発足

■1868年(慶応4年)1月27日
鳥羽・伏見の戦い勃発、戊辰戦争の始まりです。(~1869年6月まで)

■1868年(慶応4年)2月10日
新政府は東北各藩に「会津藩追討」を命じ、官軍の北上が始まります。

■1868年(慶応4年)4月6日
五箇条の御誓文
天皇を中心とする新政府の基本方針を示すものです。
まだ16歳の明治天皇が御所の紫宸殿(ししんでん)に「天神地祇(てんじんちぎ)」をまつり、公家や諸侯とともに「御誓文」を天地神明に誓う儀式が行われました。

■1868年(慶応4年)5月3日
江戸城無血開城、徳川慶喜は水戸で謹慎、徳川幕府が名実ともに終わりました。

■1868年(慶応4年)6月
新政府は「府藩県三治」体制を敷き、
旧幕府から接収した新政府の「直轄地」を「府」と「県」に区分けしました。

江戸町奉行の支配地と遠国奉行の奉行知行所を「府」とし、
(京都、渡会、大阪、甲斐、東京、神奈川、越後、函館、長崎)

その他を「県」とし、
「藩」はそのまま大名が支配しました。

■1868年(慶応4年)7月17日
「江戸」 が 「東京」 になりました。

■1868年(慶応4年)8月27日
「明治天皇」の 即位式。

■1868年(慶応4年/明治元年)9月8日
元号を「明治」と改めます。
(明治元年1月1日は、この年の1月1日に遡って定められました。)

■1868年(明治元年)10月13日

明治天皇は京都から東京へ移り、「江戸城」が「東京城」になりました。(皇居)

■1868年(明治元年)11月5日
会津城陥落、松平容保は降伏。

■1868年(明治元年)12月
榎本武揚(旧幕府軍)が蝦夷(北海道)に上陸。

■1868年(明治元年)12月〜1869(明治2年)年2月
明治天皇は父・孝明天皇の法要のため京都へ、この間に政府機関を次々と東京へ移します。

■1869年(明治2年)1月
「版籍奉還」の申し出始まる
まずは新政府樹立を主導した薩摩・長州・土佐・肥前の4藩が申し出て(上表を提出)、以後他藩も続々と提出し、6月にはほとんどの藩が提出を終えました。

■1869年(明治2年)1月
函館・五稜郭を占拠、「榎本政権」として蝦夷地の領有を宣言します。

■1869年(明治2年)3月
事実上、東京遷都完了。
天皇が東京城に移ったことで政治の中心が京都から東京になりました。

■1869年(明治2年)6月末
五稜郭が陥落し、榎本は降伏、ようやく戊辰戦争が終わりました。

■1869年(明治2年)8月
「東京招魂社」が創建され、官軍側の戦死者3588人が合祀されます。
(これがのちに「靖国神社」と改称されます。)

■1869年(明治2年)6月
明治天皇は「版籍奉還」を勅許、実施されます。

■1871年(明治4年)8月29日
「廃藩置県」実行。

「版籍奉還」ー土地も人も天皇へお返しすることー

「五箇条の御誓文」は、天皇が政治を行うことを前提とした「新政府樹立宣言」でした。

  1. 議会を置いて、何事も人々の議論を尽くしたうえで天皇が裁断します。
  2. 身分の上下にかかわらず心を一つにして国を治めます。
  3. すべての国民各々が責務を果たし志を遂げられるように、国民の心が離れないようにします。
  4. 古い慣習にとらわれず、「万国公法」に基づき世界に目を向けます。
  5. 積極的に世界から学び、天皇の国家統治の基礎を作ります。

これを政府の基本方針として、「天皇を中心とした中央集権国家」を目指しました。

江戸時代は各藩を大名が統治し、藩の収入は藩のもの、年貢は藩に納めます。

幕府の財源は幕府直轄領の年貢、商・工業の収入であり、江戸時代初期にはかなり豊かでしたが、幕末には深刻な財政難に陥っていました。

維新新政府は有力藩の寄せ集めであり、財政難が変わるわけではありません。
それどころか戊辰戦争によってさらに悪化していました。

全国3,000万石の石高のうち、政府の石高は約800万石、これでは国政は出来ません。

しかし全国の諸藩にしても戊辰戦争後の債務は平均して年間収入の3倍にもなっていました。

また、海外貿易が盛んになる中、多くの藩で行われた貨幣の贋造(がんぞう)が外交問題となり、各藩独自の「藩札」(藩内で発行する紙幣)の廃止も課題でした。

全国統一の貨幣制度を作り、旧藩の債務、税金(年貢)も新政府に集約させる必要があったのです。

そして世界を相手に、世界に通用する国になるためには、

バラバラの日本を一つにまとめ、維新政府に権力を集中させた新しい政府組織を整備しなければなりません。

新政府はまず、「府藩県三治制(ふはんけん さんちせい)」を実行し、「領地の新しい区分け」に着手すると、次には諸藩に「版籍奉還(はんせきほうかん)」を促します。

「版」は土地、「籍」は人です。

元来、すべての土地と人民は天皇の所有である。

というわけで、現状、完全に私有物化している「藩」を天皇に返上せよ、ということです。

多くの藩は戊辰戦争でボロボロでしたから、

お金はないし人材も減るし、農民の一揆や暴動が頻発し治安が悪くなり年貢の徴収が滞るなど、藩自体も、藩主の権威も失墜していました。

こんなに新政府のために頑張ってきたのに。新政府は藩の領有権を奪うのか、と反発もありました。

まずはさきがけてお手本となるべく、大久保利通、木戸孝允が自分の殿様の説得を試みました。

ところが、というより案の定、いまだ実権を握る薩摩藩主・忠義の父・島津久光は猛反対、烈火のごとく怒りましたし、

長州藩最後の藩主・毛利敬親は普段は「そうせい候」と呼ばれるほど部下の希望を「そうせい」と言って許してくれましたがこればっかりは「そうせい」と言いませんでした

そこで新政府は、「版籍奉還」の通達に「与えるべきは、これを与える」との一文を入れました。

さらに「知藩事」は藩主をそのままスライドすることにし、維新に貢献した藩の藩主に「賞典禄」(ごほうび)を与えるとして、薩長土肥に手厚いものにしました。

「与えるべきは、これを与える」。

領地を与えてくれるのが幕府でも朝廷でも同じことだ、それで領有地と藩主の立場を保証してくれるなら願ったりかなったり。

全国の藩主は喜んで「版籍奉還」を願い出ました。

島津久光も毛利敬親も渋々受け入れました。

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「廃藩置県」と「御親兵」

事実、「版籍奉還」の段階では、藩主は中央政府から任命された「知藩事」ということなりましたが、藩主であることに変わりはありませんでした。

名前が変わっても各藩が独自の政治を行っているうちは「中央集権」には程遠いのです。

政府の財政はどんどん悪化するばかり、直轄地の増税をしたら暴動が起きました。

新政府は藩を廃止しなければいけないと考え始めます。

「藩」をすべて廃止し、土地の区分けをやり直し「県」とする、「藩主」を無くし、中央政府が任命した「県知事」を、出身地と関係なく配置する。

これはかなり強烈です。

人々にとって「国」とは「藩」であり、他藩は他国。

「おまえは何人だ?」と問われれば「薩摩人だ」「土佐人だ」というわけで、「日本人だ」という感覚がないのですね。

これを「日本という国の国民だ」という意識に変えるのですから一大事です。

ところが。

「藩を廃止し、政府が一元管理するべきだ」

と言い出したのは各地の藩主でした。

鳥取藩知事・池田慶穂(徳川慶喜の兄)、熊本藩・細川護久、尾張藩・徳川義勝など、藩財政の立て直しや人材登用の必要から身を以て「改革」の必要を感じていたのです。

ところがところが。

藩を解体することに反発する抵抗勢力もあり、各地で反乱を起こしたりもしました。

「封建制度」を守りたい薩摩の島津久光も強硬に反対していました。

新政府のメンバーは行き詰りました。

新政府とはいってもほどんどは下級武士、自分の殿様(藩主)には逆らえません。

しかし「廃藩置県」は何としても必要。

しかし強行すれば暴動が起きる。
政府にはまだ明確な「政府軍」はないのです。

それに地方からの提案でコトを実行するのでなく、あくまでも政府主導で進めたい。

戊辰戦争終結後、鹿児島に帰っていた西郷隆盛が東京に来ていました。
山縣有朋が西郷に相談すると、即断即決、やりましょう、と言います。

果たして1871年8月29日、東京にいる56人の藩知事を集め、明治天皇によって「廃藩置県」の「勅書」が出されました。

皆びっくり仰天、翌30日の政府首脳会議で一同が今後を議論してざわつくところに、西郷、

「異議が起これば兵をもって撃ち潰す」

と言うと途端に静かになったそうです。

その後「廃藩置県」は予想されたほどの混乱もなく進められました。
大方の藩主は、自分たちも行き詰まって、強い日本を作るためには廃藩が必要なことを実感していたのでしょう。

ただ一人、島津久光は「廃藩置県」断行の知らせを受け、鹿児島の島津邸で無念の?抗議の?花火を打ち上げたのは有名なお話です。

西郷のいう「兵」は、天皇直結の「御親兵」で、新政府の正規軍です。

戊辰戦争の後、西郷隆盛は新政府のメンバーの方向性やヘンに西洋かぶれした贅沢ぶりを批判し、在京の兵とともに鹿児島に引き揚げていました。

王政復古の功により賞典禄永世2,000石を下賜され、西郷は鹿児島で「薩摩大参事」に就任しました。

(永世とは一生のこと、2,000石ってことは・・・ 1石=150Kg、現代だとちょっと良いお米で10Kg 5,000円?くらいですか? 4,000円としても 150Kg×400円×2,000=120,000,000円!! 一生、年収1億2,000万円・・・・・・^^;)

山縣有朋の言う「御親兵」の必要性に賛同していた西郷は、薩摩の藩政改革を行い、私学校を作り、各地に大小の「常備軍」を育てました。
元々薩摩藩は他に類を見ないほど武士の多い藩でしたのでその土壌はあったのでしょう。

在京の兵を引き揚げ、せっせと常備軍を育てる西郷に、新政府は「薩摩が何かコトを起こすのではないか」という懸念を抱き、事前にこれを抑えるためもあって鹿児島藩(薩摩藩)・山口藩(長州藩)・高知藩(土佐藩)の兵を「御親兵」に編成するとの徴収命令を出しました。

「廃藩置県」が発動されるこの年の2月、西郷は「常備軍」の兵5,000を率いて上京し、東京市ヶ谷の旧尾張藩邸に駐屯していたのです。

この鹿児島藩の(西郷の)圧倒的な軍事力を背景に「廃藩置県」は実現し、「御親兵」は名実ともに日本の「国軍」となるのです。

「廃藩置県」で「中央集権国家」の基礎が出来ました

「廃藩置県」は当初は基本的に「藩」を「県」に置き換え、3府302県となりました。

(その後数回の統合、合併、分割を繰り返し、最終的には明治22年、3府43県(北海道を除く)となります。)

これによって明治新政府はいよいよ「中央集権国家」実現に近づきます。

藩主と藩の財政を切り離し、

諸藩の税源を政府に集中させ、

その税収を殖産興業や富国強兵に充てる

藩ごとの軍隊ではなく、国家の、西洋的な軍隊を作るために軍制を一元化し

国民皆兵を実施する

などなどの新政府の政策課題は、何をするにも「国策」として国民に周知できる体制の基礎がようやく整いました。

これ以降、日本は政府組織(中央管制)、地方行政、天皇・宮廷、身分制度、商業、工業、流通、金融、文化、教育などなどあらゆるものの改革を進め、それにともない人々の暮らしは大きく変化します。

諸外国からも日本の改革の評価は高かったといいます。

「明治維新」がどこまでかという議論は諸説ありますが、この「廃藩置県」まで、とする見方は多いようです。

確かに「廃藩置県」が近代日本の始まりと言えますし、それほどに「明治維新」の中でも大きな、重要な改革でした。

ところで、「明治」という元号の出典は、「五経(ごきょう・儒教で尊重される5種の教典)」の一つ「易経(えききょう)」の中にある、

「聖人南面して天下を聴き、明に嚮いて(むかいて)治む」

だそうです。

1868年9月8日、宮中で儒者に選定させたいくつかの元号の中から、天皇が御籤(みくじ)をひいて決まりました。

この日に布告された「改元詔書」には、「一世一元(いっせいいちげん)、以て永式となせ」とあります。

天皇一代の間は、ただ一つの元号を用いる、ということで、これ以降、天皇が代わるときに改元がされるということです。

日本の歴史が大きく動いたのは、「廃藩置県」が実行に移された1871年8月末、残暑の頃。

今からたった147年前のことでした。

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